只野真葛『むかしばなし』より

女の悪念

 女の悪念に祟られるのは、珍しいことではない。実際に祟られた人を知っているので、ここに記しておく。

 赤羽あたりの十万石余の大名の家来で、用人などを務めた人が、一人娘の婿に迎えるつもりで養子をとった。
 その養子は男ぶりがよいだけでなく、諸芸をひととおり心得た当世風の若者で、何事にも気が利いて養親によく仕え、まったく申し分なかった。
 ところが、家つきの娘のほうは大悪女であった。もともと気性が荒々しいところに、一人娘で我がままに育ったため、勝手放題にふるまって上品さのかけらもなかった。養子はこの娘を、若気の短慮もあったのだろうが、心底気に入らなかった。

 やがて日を決めて婚礼をとり行おうという時期になると、養子は実家に帰ってしまい、それきり戻らなかった。
 実親に打ち明けて言うには、
「娘と連れ添わねばならぬなら、あの家を継ぐのは厭です。この身がどうなろうと、そればかりは勘弁してください」
 実親はやむをえず、仲人を通して養家に言伝てした。
 養父母の嘆きと困惑はひととおりでなかった。親の欲目で見ても、わが娘の性根が良いとは思われない。今この養子をもらい損ねたら、もうこれほどの者は見つからないだろう。万が一見つかっても、その者もまた娘を厭がるのは火を見るより明らかだ。仕方がない。娘を他家に縁づけて、なんとか養子を呼び戻そう。
 このように腹を決めると、娘にことのあらましを話した。
 娘はいい男を婿に持てると喜んでいたのに、そこまで嫌われていたと知って、猛々しい心にどんな思いが沸き騒いだことだろう。
「とても添われぬことと諦めてくれ」
と説得され、ひたすら無言でいたが、しまいにただ一声、
「ひどい、ひどいわっ!」
と絶叫した。その声は、隣家までも揺るがす恐ろしい大音声であった。
 以後、娘は一切ものを言わず、絶食して七日目に死んだ。末期の様子なども、恐ろしいかぎりだったという。

 葬儀がひととおり済むと、養子は養家に戻った。しかし経緯が経緯だから、悔やみを言うのも言いにくく、具合の悪いことであった。養父母が健在なうちは、遠慮して妻を持つこともしなかった。
 そうするうち、娘の怨みが報いたか、鼻の上に腫れ物ができて、二三年間難渋した。治った後も腫れが引かず、赤鼻の醜男になった。もっとも、それが勤めの障りになるわけではなかった。
 養父母が亡くなってから妻を得た。夫婦仲はむつまじく、子も一人できて、平穏に暮らしていた。
 夫婦とも酒が好きで、夏になると庭に涼み台を置いて酒盛りをする。下女は先に寝かして二人で差し向かい、杯を酌み交わしては、代わりばんこに酒の燗に行く。
 ある晩、夫が燗をしに家に入ったとき、突然、庭から血の凍るような悲鳴。驚いて駆け戻ると、妻は涼み台から落ちて気絶していた。薬だ、鍼だ、と騒いで介抱したが、結局意識が戻らず、死んでしまった。
 その後むかえた妻も、男子を一人もうけて三年めの夏、行水に入った湯殿で一声叫んで、それきり死んだ。三人目の妻もやはり子を一人もうけ、三年目に同じようにして死んだ。

 この養子の人は、医師の日向とう庵と家が近所で懇意にしており、よく日向の家に世間話に来ていたそうだ。
 三人目の妻が気絶したときも、碁の寄合で日向の家にいた。知らせの者が駆けつけて、
「奥様が気絶なさいました」
と告げると、本人はさして驚く様子もなく、
「はて、困ったものだ。今度も助かるまい」
と呟いたという。それからは独り身で暮らすようになった。
 ある年、私が日向の家の者らと連れ立って船遊山に出かけたとき、その人も、十歳ばかりの男の子を連れて一緒に来ていた。歳のころは五十くらいに見えた。
 思うに、子供がいるので家名が絶えることはなく、顔が不細工でも武士の勤めの邪魔にはならない。ただ当人に何かと不自由させるような祟り方ではある。
あやしい古典文学 No.511