森春樹『蓬生談』巻之三「玖珠郡松木村の文右衛門狐の妖にて死たる事」より

狐と河童が夜ごと来る

 筆者の家業の支店が、玖珠郡の小田村にある。先年の冬十一月に用事があってそこに滞在していたとき、同郡松木村の文右衛門という者が狐の妖にあって迷惑しているという風説を聞いた。
 ある日、たまたま店先を通った文右衛門を番頭の嘉兵衛が呼び入れたので会ってみたら、その男はかつて縁戚の濱田屋に下男奉公していた者で、筆者とは互いに顔見知りであった。
 そこで、さっそく狐の妖について尋ねると、次のようないきさつを語った。

 このところ米の輸送で人や牛馬の行き来が多いので、文右衛門は道沿いの某所に小屋を建て、草鞋(わらじ)・塩・肴・酒などを売ったが、そうするようになってから夜な夜な狐が来て、寝ることができない。
 狐が何しに来るのかというと、事の起こりは三年ばかり前にさかのぼる。
 文右衛門が用事を果たしに夜道をたどり、隣村の恵良村から川を越え大隈村へ向かったとき、両村の中途の石田河原という野っ原に芝居がかかって、見物で大いに賑わっているのに出くわした。『今日まで何の噂もなかったのに、この夜になってにわかにこれほどの芝居興行があるはずはない。きっと狐の仕業だろう』と思って、かまわず行き過ぎようとすると、一人が近寄って、
「芝居を見ないかね」
と声をかけた。
「狐芝居など見るものか」
と言い捨てて歩み行き、用事を済ませての帰り道では、何事もないいつもの野っ原だったわけだが……。
 その時のことだといって、老人と娘が訪ねてくるのだった。
 老人は齢七十くらい、浪人とみえて人品よろしく、空色の単物に黒縮緬の羽織で大小をたばさんでいる。娘は二十四五の色白の美人で、地白形の帷子(かたびら)に黒繻子の帯を結び、小さな狐の子を抱いている。
 最初に来た夜、老人は言った。
「貴殿は三年前、石田河原にてこの娘と一度交わり、後に一子をもうけた。今その子を抱いてきたから、娘を妻にせよ」
 文右衛門が、
「そんな覚えはない」
と応えると、
「いや、あの夜『芝居を見ないか』と言われたのを覚えているはず」
「なるほど覚えている。『狐芝居は見ない』と言い捨てて去ったが、それがどうした」
「狐芝居と見抜いた貴殿の賢い心を見込んだゆえ、こちらで術を用いて交わったのだ」
「それはおかしい。あの夜おれが交わったのは四日市村の某女で、前々からの深い仲だ」
「さにあらず。この娘が某女に化けて交わった」
 老人は、三年前の夜に文右衛門と女の語った内容を証拠として示した。それらはすべて当たっていたが、四日市の某女とはその後もたびたび会い、あの夜のことも互いに語り合ったから、交わったのが某女でないはずはない。狐は盗み聞きしたことを言うだけだと気づいて、ためらわず言い返した。
 押し問答の末、夜明け近くなると帰ったが、それからというもの毎夜来て、果てしない言い合いを繰り返している。
 奇妙なことに、この問答の間、河童が二十匹ばかりでまわりを取り囲む。河童どもは何か言っているが、よく分からない。わずかに聞き分けられるのは、老人の狐が、
「なんとしても女房にさせずにはおかぬ」
と迫るとき、河童一同が手を叩き、
「そのとおり、そのとおり」
と言うところだけだ。ほかは意味不明だし、そもそも狐は化けているのに、河童は河童の姿のままである。

 文右衛門が店先を通ったのは、そんな寝られない夜が二十日ばかりも続いた時で、
「今から、瀧の社の山城殿をお迎えに行くところです」
と言っていた。山城殿とは、瀧明神という小田村・戸畑村・山浦村の三村にかかる大社の神主で、穴井山城という人のことである。
 まもなく筆者は小田村の用事を済ませて我が家に戻ったが、番頭の嘉兵衛には、成り行きを委しく聞きおくように言いつけておいた。

 その後の嘉兵衛の知らせによれば、穴井山城が来た晩から三夜のあいだ狐たちは現れなかったが、山城が帰るとその晩からまた来るようになったそうだ。
 文右衛門が今度は、一夜を庄屋の下男部屋に隠れて寝たところ、二夜まで来ず、しかし三夜めにはまた元どおり来るようになった。
 狐老人はいよいよ強硬になって、
「わが娘を女房に持ては富貴になる」
ということをしきりに言い張るので、
「狐の金銀は木の葉か土くれか。おれはそんなものに迷わない。その子が本当におれの子だというなら、たとえ腹は狐でも人間の子を産むべきだ。まるきり狐じゃないか。どういうわけだ」
 理屈で責めると、老人は黙り込んだ。娘はただ涙を流してものを言わない。そこで文右衛門が声高に叱りつけた。
「畜生のくせに無礼なやつ。とっとと帰れ」
 これには老人も憤激し、
「なんだとっ!」
と刀の柄に手をかけてにじり寄るのを、
「出て失せろ」
と拳で殴りつけたとき、老人の刀の柄頭に触れたが、小竹の切り口に触ったような感じがしたそうだ。
 そんなこんなで時が経ち、文右衛門はひとり夜は寝られず、昼は昼で仕事に疲れ、鬱症のように病み衰えた。
 そのあげく、『文右衛門の姿が二三日見えない』と村じゅうで探したところ、谷川の岸の竹林の中で死んでいた。
 死骸は、肩から腕にかけて歯の痕が多数あり、眼玉をくり抜かれ、陰茎が引き伸ばされて二尺ほどにもなっていた。

 村の者は、
「文右衛門が小屋を建てた橋の際のところは、河童が毎晩集まって遊ぶ場所だったに違いない。それで恨みを持った河童が狐に手助けを頼み、文右衛門を計略にはめたのだろう。河童と狐が手を組むのは、よくあることだ」
などと話しているらしい。
 その説はもっともだと思う。筆者の住む地でも、河童と狐が一緒に妖をなした例が二つ三つある。
あやしい古典文学 No.691