橘崑崙『北越奇談』巻之四「怪談其十四」より

いぼ岩

 越後村松藩には、河内谷の渓流で釣りをする侍が多い。
 おのおのに気に入りの岩や木陰、流れのよどみなどがあって、そこを自分の場所と心得、釣り糸を垂れるのだ。

 ある日、藤田某という者が、いつもの岩へ行って釣りをしていたが、昼過ぎになっても一匹の魚も獲れない。
 場所を変えようと思い、川の浅瀬を渡って川上のほうへずっと上って行きながら、手ごろなところはないかと探すと、山蔭に深く入り込んだ淵に面して、滑らかなイボイボの岩があった。
 岩上に三畳敷ばかりの平場がある。ここでよかろうと坐り込んで、しばらく釣り糸を垂れた。
 やがてまた一人、川向かいの岸に来て釣りはじめた。ところが、その侍は急に釣竿をおさめ、藤田に向かって『早く逃げろ』と身振りで教えると、そのままものも言わず、慌てふためいた様子で川下のほうへ立ち去った。
 藤田も、要領を得ないながら何となく不安になって、その場を切り上げてもとの道を帰り、浅瀬を渡って、さきほどの侍に追いつくと、
「さっきはどうしたのですか」と尋ねた。
 侍は大息をつき、まだ少し青ざめた顔で、こう話した。
「知らぬが仏というものだな。貴公の坐った岩を何気なく見ていたら、ふと岩が両眼を開き、大口を少しあけてあくびすると、また眼を閉じた。その眼の赤いこと炎のようで、恐ろしさはとても言葉にならない。これはきっとウワバミだと思って、早々に逃げだしたのだ」

 その後、藤田は友人を伴って同じ場所へ行ってみたが、かの岩とおぼしきものは消え失せていたそうだ。
 これも、話に聞く山中の大蝦蟇(おおがま)なのだろうか。
あやしい古典文学 No.884