池田定常『思ひ出草』巻四「畸女之事」より

俳人園女

 俳人園女は、伊勢山田の神官 渡会(わたらい)氏の娘で、因幡国の人 岡西惟中が京都に居住しているときに、その妻となった。
 惟中が死んで後、尼になろうと思ったが、神官の娘が僧形になることを我が心に許せず、頭頂部に髪を少し残し、清国人の弁髪のような頭にした。

  花のない身は狂ひよき柳かな

 これは、そのときの発句である。
 後には芭蕉翁の門に入り、俳諧の席に出るにも男女が相対するのを嫌って、紙を張り重ねた深い桶のようなものをかぶって席に列した。
 独り住まいで台所の流し板というものもなく、文庫の縁を外して使った。草履の鼻緒が抜けたときは、襦袢の袖を裂いて用いた。そのようにして、日々清貧を楽しんでいた。

 年老いてのち江戸に下ると、園女の名を聞いた安藤対馬守の夫人が、屋敷に呼び寄せて扶持した。
 法名は智鏡と号し、六十余歳で身まかった。亡骸は深川霊巌寺開山堂の傍らに葬られた。
あやしい古典文学 No.1555