秦鼎『一宵話』巻之二「福仏坊が事」より

福仏坊

 正保元年のこと。
 奥州会津領の山中に、福仏坊という仙人が住居し、木こりどもも時々見かけるというので、その仙人を召し捕るよう官命が下った。
 やがて捕らえて話を訊くと、
「生国は伊予。若い時に悪事をはたらき、ニ十五歳で国を出た。東国へと下ってこの山中に入り、木の実などを食しているうち、いつのまにか長生きした」
などと語った。
 昔の出来事や本人の年齢を尋ねたが、
「何もかも忘れてしまった。ただ、東国に向かう途中、尾張の熱田を通ったとき、新鋳の鐘の供養だとかで、神宮寺の参詣者がおびただしかったことだけは覚えている」
といった返事で、どうにも頼りない。
 そうはいっても仙人だからと、丁重に扱っているうち、隙をつかれて逃げられた。そのまま深山の奥に入り、二度と出て来なくなった。

 福仏坊は、どれくらいの長寿だったのだろう。
 熱田の鐘を手掛かりにしたら調べられるはずだが、人の話では、今その鐘は熱田にないとのこと。筆者はふと思いついて、当地の総見寺の鐘を調べた。はたして、もとは熱田の神宮寺のものだった。
 どういうことかというと、織田信雄が父信長公のために清洲に総見寺を建てたとき、鐘を鋳る費用が捻出できず、熱田のを取ってこの寺に掛けたのだ。鐘の銘に『熱田宮 神宮寺 延徳元年十月十三日、旦那浅井備中道慶菴主』などとあるから、まちがいない。
 延徳元年から正保元年まで百四十年余、それに熱田を通ったときの福仏坊の年齢として二十五を加えれば、おおよそ百六七十歳くらいだ。それほどの長寿ではないが、今の人の感覚では、仙人と思うのも無理はない。

 もっと以前には、こんな話もある。
 四国の山中に、平清盛の嫡孫で熊野灘にて入水自殺したとされる平維盛が、仙人になって住んでいるとの風聞があった。
 神君家康公より宇和島藩主 伊達遠江守殿に、維盛仙人を連れてくるよう命が下ったが、仙人は参上を断った。よって伊藤播磨守殿が遣わされ、時服四つを賜ったそうだ。
あやしい古典文学 No.1600