糸魚川から富山へ

 三月になってまもない某日、JR糸魚川発15時14分の普通列車562Mで、富山に向かった。
 糸魚川の次が青海で、次が親不知、その次が市振。
 『奥の細道』には、「今日は、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて、疲れはべれば、……」などと書かれている。芭蕉が泊まったのが市振で、「一家に遊女も寝たり萩と月」となるわけだ。遊女と同宿したというのは事実じゃないらしいけれど、そんなことはどうだっていい。
 親不知はなるほど難所で、右写真のとおり、北陸自動車道は海にはみだすという反則技に出ている。
 市振を出て次の越中宮崎からが富山県で、このあたり寂しい砂浜の海岸線が続く。景色が北にひらけているから、海も空も翳って見える。次第に雪空に傾いて、浜に点在する小屋も影絵になった。

 ふと「名水とジャンボスイカの町、入善」と野立て看板。うーむ、どんなスイカやねん。
 そうするうち今度は「名水の里、黒部」。スイカはないらしい。
 さらに列車は走って「蜃気楼の見える町、魚津」。蜃気楼というのは、どでかいハマグリが「気」を吐いて描き出すところの、楼閣の幻影なのだよ。
 魚津には十年以上も前に降り立ったことがある。その日、魚津に人はいなかった。がらんとした駅前広場を、独りテクテク歩いた。
 日本海岸一の大観覧車というのがあって、それに乗りに行った。海岸の遊園地のようなところにあるのだが、そこにも人がいなかった。
 観覧車は止まっていた。その下までたどり着くと、裏で掃除か何かをしていたらしいオバサンが白い長靴姿で現れて、チケットを売ってくれた。私が乗りこむと、オバサンの操作で観覧車が動き始めた。
 たしかに大きな観覧車だった。一面に広がる富山湾の上空に吊り上げられるような感じで、風の音だけが聞こえる。下では豆粒みたいになったオバサンが、こっちを不安そうに見上げている。観覧車ごときに乗って恐怖を覚えたのは、あの時だけだ。
 その観覧車は、曇天の下に今も立っている。私が乗ったのを最後に、ずっと止まったままでいるかのように。
 懐旧の観覧車の姿が消えると、「好きです滑川」。にわかにそう言われてもなあ。

 富山市には大昔、会社員になりたてのころ、十日ばかり滞在したことがある。やはり三月になるかならないかの頃だった。富山の印刷所で組版している急ぎの本の校正に行ったのだった。
 その日に上がった分の校正ゲラを夕方、印刷所の専務さんがホテルに届けてくれる。夜のうちに校正して、朝たずねてくる専務さんに渡す。昼間は眠ったり、図書館で調べものをしたり、電車で立山を見に行ったりした。
 その仕事が済んで半年も経たないうちに印刷所は倒産してしまったが、まさか私のせいではあるまい。
 あの時と同じ経営のホテルに泊まった。
 銀盤とか幻の瀧などという酒を飲んで酔っ払ったので、部屋で独り写真を撮って遊んだ。
 こう見えても、来年の暮れには齢五十になる。天命を知るのが楽しみだ。