河童と実盛

 三月上旬の冷たい雨の降る朝、佐賀県の伊万里から松浦鉄道に乗って三駅目、楠久に降り立った。駅から歩いて10分あまり、松浦一酒造の河童のミイラに会いに行った。

 創業300年に近い造り酒屋、松浦一酒造で妖しい黒い箱が発見されたのは、50年前、屋根替えを行ったときのことだったという。梁にくくり付けられていた箱には「河伯」と記され、箱の中には何とも分からぬミイラが……。
 このミイラは有名で、観光バスも立ち寄るほどだが、私が訪れたのは朝のうちだったので、酒蔵にはだれも居なかった。蔵の奥に水神の神棚があり、河伯のミイラがまつられている。許可を得て写真を撮り、帽子を取って一礼した。
 必ずしもシャレでやっているのではない。こうした水神は私的に、原風景に響くというか、心の奥深い部分でリアリティを感じる。この河伯のように滑稽でいかがわしく、なのに無性に懐かしい、無力で不安な守り神が、私の内部に棲んでいるからかもしれない。
 酒蔵では酒の試飲ができる。良い味わいだったので何本かを購入し、自宅宛に発送を依頼して、ささやかな達成感とともに来た道を戻った。

 再び松浦鉄道、楠久からたびら平戸口まで。たびら平戸口は日本最西端の鉄道駅だという。そこから坂道をずうっと下る。平戸大橋のたもとに辿り着いてバスに乗り、平戸島に渡った。
 言わずと知れたことだが、平戸は江戸時代初頭まで繁華な対外貿易港であったし、また海の豪族松浦党の主要拠点でもあった。『甲子夜話』を著した静山松浦清は、松浦家三十四代目にして肥前平戸藩九代目の藩主である。
 そんな歴史を体感すべく平戸の町を歩き回ったが、それより先に寒さが身に沁みた。 風雨に晒されて意識も朦朧としてきたので、歴史は切り上げてホテルに入ることにした。
 その前に、夜の酒を求めねばならない。通りすがりの古い酒屋で物色していると、隅の薄闇から音もなく白髪のお婆さんが立ち現れ、
「これが美味しいですよ」
と耳元で勧めるのだった。
 その酒の正体はいまだに分からない。酒というより、昔のシミ抜きのベンジンのようなラベルだった。私はその瓶を提げて、よろめくようにホテルに入っていった。
 お婆さんの勧めた酒は旨かった。酔いに頭を垂れ、錆びたスチールのロッカーが置かれただだっ広い事務室みたいな部屋で、降りしきる雨の気配に包まれていた。もはや取り戻しようもないあれやこれやが脳裏を去来し、思いがけず涙がこぼれた。
 飲み過ぎたのだ。それから11時間眠った。目覚めると、空はすっきり晴れ渡っていた。

 平戸からバスで生月島に向かう。山と海の交錯する風景はあくまで美しい。生月大橋を渡ったところでバスを降りた。
 生月島は江戸時代後期、日本一の捕鯨基地だった。享保10年(1725)から明治6年(1873)の間に捕獲した鯨の数は2万頭を超えるという。当地の捕鯨のことは、私も司馬江漢の『西遊日記』から知っていた。江漢は天明8年(1788)から翌年にかけて生月島に滞在し、盛んな捕鯨の様子を記録文と絵画に描いている。
 江戸時代の生月島は、隠れキリシタンの島でもある。捕鯨と隠れキリシタンの資料が、生月島博物館「島の館」に展示してある。隠れキリシタンについて予備知識なしに訪れたせいもあって、その資料は見応えのあるものだったが、もう一つ「実盛人形」に出会ったことを記しておきたい。
 『甲子夜話』には、平戸藩内の「実盛人形」について次のように書かれている。

「蝗(いなご)が稲作にもたらす害には、甚だしいものがある。わが領内で蝗が発生すると、これを追うために、わらを束ねて作った人形を捧げて田の畔を巡行する。あとに大勢が従って金鼓を打ち鳴らし、大声で念仏を唱え、銃を放って気勢を上げる。
 このときの藁人形を実盛と呼ぶ。昔、平家の武将斎藤実盛が加賀篠原の戦いにおいて、田んぼの中で戦死した。その屍が朽ちて、みな蝗となったというのだ。笑うべき説である。
 こうして行列して練り歩き、終いには人形を田の畔に置いて鉄砲で撃ち、海に投じる。そうすれば蝗はことごとく群れをなして去っていくのだという。古書に実盛戦没のことは見えるが、蝗になった話など載っていない。しかし、こんな風習が生まれたのには何かわけがあるのだろう」

 徒党を組んで発砲しつつ示威行進。江戸時代の農村らしからぬ剣呑さに驚くが、斎藤実盛は『平家物語』の脇役中で人気の高い一人なのに、蝗扱いとはまたひどい話だ。しかし虫追いの風習において、虫=実盛となっているケースは肥前平戸に限らず、全国に数多い。実盛が討たれたのは稲の切り株に躓いて倒れたせいで、それゆえ稲を恨んで虫と化し云々、といった説明もなされている。まあ、そんなことはどうでもいい。
 生月島で今もそういう虫追いが行われているわけではなく、島の館の実盛人形は、古い記録を元に復元したものらしい。小学校低学年くらいの背丈の肉太な藁人形である。布張りの顔面には強気一点張りの目鼻が描かれ、股間から長大な男根が突出している。子の刻参りに釘をうつ人形の大きいようなのをイメージしていた私は、これを見て『甲子夜話』の記事の印象が一変した。館内撮影禁止を遵守して撮影しなかったが、撮しておけばよかったと思う。

 島の館を出て歩いていくと、大きな観音の上半身が現れた。これは生月大魚藍観音といって、1980年建立のブロンズ像、高さ18メートル。
 思うに、原則偶像禁止の一神教が優勢な現代世界において、巨大な宗教的偶像を国土のあちこちにおっ建て続けている民族は、今や日本人のほかにないのではあるまいか。
 さすがに興醒めするようなあざとさ漂う巨仏像も少なくない中に、この観音は、青銅という素材が20数年間の潮風を受けたせいか、すっかり漁師町の風景に溶け込んだものとなっている。
松浦一酒造のWEBページは → こちら
河伯の大きな写真は[でじ亀の壺]に → こちら
生月島博物館「島の館」のWEBページは → こちら