蛸島折り返し

 のと鉄道は、1988年3月にそれまでのJR線を受け継いで営業開始した、奥能登の第3セクター鉄道である。七尾−穴水間を七尾線、穴水−蛸島間を能登線と呼ぶ。当初は穴水から輪島に向かう輪島線もあったが、これは2001年3月をもって廃線となっている。
 のと鉄道を終点まで行って、そのまま何もせず引き返そうと思った。

 七尾でJRから乗り換えて、奥能登方面に向かった。ときおり小雪が舞って、こころなし薄汚れた景色が、いっそう寂しく見える。寂しい景色はいいものだ。たとえそれが窓ガラスの汚れのせいでも。
 穴水から先、乗客のほとんどはお婆さんになった。ひとつ前の席のグループは、『保険に入ると入院1日で1万円が当たる……』という話題で盛り上がっていた。アリコの保険は懸賞か。

 七尾から2時間足らず乗って、「九十九湾小木」で下車。初日はここで泊まった。
 九十九湾はリアス式で多くの入江をもち、真ん中に蓬莱島という島がある。ここは遙かな昔に訪れたことがある。そのとき宿泊した旅館と違うところにしたはずが、なぜか見覚えがあった。
 気のせいではない。広間も、廊下の造りも、風呂につながる洞窟の形状も、ことごとく記憶に蘇ってくる。何かの理由で、旅館が名前を変えたのだろう。
 記憶と引き合わせると、何もかもたいそう古くなっている。壁も古い。敷物も古い。仲居さんもそろって古い。もちろん、私も負けずに古くなっているわけだ。木々が眺望を塞いで繁っている窓は、当時は広々と湾を見渡したであろうと思われる。
 かつてはここに、数人の親しい友人たちと来た。活気のある旅館で、私たちは大いに飲んで騒いだ。
 その頃の私のことは彼らなしに考えられないが、今では各々の道を歩き、久しく顔を合わすこともない。人はそれぞれに生きるのがいいのだ。

 翌日は強い風が吹いた。晴れ間が広がると、日差しが冷え冷えと眩しい。
 九十九湾小木を出て5つ目の駅、「鵜島」。ここの海岸に、奥能登観光のポスターによく出てくる見附島がある。思っていたより海岸に近くて、堂々としている。
 「見附島」という命名の由来は、弘法大師がこのあたりを通って海を見渡したとき、最初に見つけた島だからだそうだ。すごくつまらない。ちなみに言うと、この見附から西隣の恋路にかけての海岸の現代の命名は、聞くも恥ずかし「えんむすびーち」だ。
 鵜島駅に戻ってトイレに入ったら、コンクリートの床にどっかりと、制服の女子生徒が座り込んでいた。きたない。冷たそうだ。平然をよそおって用を足したが、能登の少年少女は侮れないと思った。

 のと鉄道終点の駅は「蛸島」という。蛸島の名の由来は知らない。
 私以外に、高校生が一人ここまで乗ってきた。彼は駅舎外に置いた自転車で走り去り、私は駅構内や無人の駅前をうろついた。
 唐突というのとも違う何気なさで、鉄道はここで終わっている。もともとは、ここで終わるはずではなかったのではないか。もっと先まで行くつもりだったのではないかと推測するが、何の根拠もない。
 何ごとにも終わりがある。虚飾を除き去れば、終わりとは、おおむねこんなものではないか。線路の終端に小さな×印がある。
 10分後、運転士さんに声をかけられて、ここまで来た車両にまた乗り込むと、駅を2つ戻って珠洲に着いた。ここで1時間あまりの待ち合わせ。待合室のストーブに向かっていると、急に瞼が重くなった。

 穴水まで引き返し、バスに乗り換えて輪島に向かった。輪島で激しい雨になった。
 何年か前にも一度、輪島に来て泊まったことがある。そのときも大雨だった。夜、旅館で傘を借りて駅のとなりの文化会館まで、上杉謙信の能登攻めに起源をもつという「御陣乗太鼓」の実演を見に行った。
 そのとき撮った写真があるので、ことのついでに載せておく。画面の大半を占める女性の後頭部は無視してほしい。ムリか。