『宇治拾遺物語』巻第八「猟師、仏を射る事」より

猟師、仏を撃つ

 京都の聖地、愛宕山に、長いこと修行を続けている聖(ひじり)がいた。もう何年もひたすら修行して、住まいを出ることがなかった。
 聖の住まいの西に猟師が住んでいて、この聖を尊敬し、たびたび訪れて食べ物など差し入れたりしていた。

 あるとき、猟師がしばらくぶりに食料を籠に詰め込んで訪ねていくと、聖は喜んで、
「久しく来ないので、どうしているかと気がかりだった」
などと話したが、そのうち猟師の傍に寄って、こんなことを囁いた。
「実はな、最近たいそう尊いことが起こるのだ。何年もずっと一心不乱に法華経を読誦して修行した結果なのだろうか、このところ毎晩、普賢菩薩が象に乗って来られるのが見えるのだよ。だから、おまえさんも今夜はここに泊まって一緒に拝むがよい」
 それで猟師は、その夜は泊まっていくことになった。

 さて、聖は召使の子供を一人使っていたが、その子供に猟師は尋ねた。
「聖のおっしゃるのは、どういうことかな。おまえもその仏を拝んだことがあるのか」
「うん、五六回見たことがあるよ」
 そう子供が言うので、猟師は『じゃあ、おれにも見えるかもしれない』と思って、聖のうしろで眠らずに待っていた。

 陰暦九月二十日のことで、夜は長い。今か今かと待つうち、夜半過ぎかというころ、東の山の嶺より月がのぼるかのように見えて、嶺をすさまじく風が吹き渡るなか、室内は光がさし込んだように明るくなった。
 見ると、普賢菩薩が、白象に乗ってしずしずとやって来て、聖の住まいの前にお立ちになる。聖は感動の涙を流しながら拝み伏して、
「これこれ、おまえさんも拝んでおるか」
と言うので、猟師は、
「どうして拝まないことがありましょうか。私も拝んでおりますよ。はいはい、まことに尊いことで」
と応えたが、心の中では、『聖は何年も法華経を読誦して修行されたのだから、その目に仏が見えるということはあるかもしれない。しかし、経の向き方の上下もわからない召使の子供やおれに見えるというのは、どうも納得できない』と考えていた。
 そして思った。『よし、確かめてみよう。真実を求めるのだから、罰当たりなことではないぞ』
 猟師は、とがり矢を弓につがえて強く引き、拝み伏している聖をさし越してヒュッと矢を放った。
 矢が仏の胸に当たったと見えると同時に、火を消すように光は失せて、何者かが逃げ去っていく音が、闇の山谷に轟いた。
 聖は、
「わあ、なんてことをしてくれるんだ」
と叫んで、泣きわめくばかりであったが、猟師が言うには、
「聖の目に見えるのはもっともとして、私のような罪深い者の目にも見えるので、射てみたのです。ほんとの仏なら、まさか矢が当たることはないでしょう。あれは妖怪ですよ」

 夜が明けて、血の跡をたどっていくと、百メートルほど先の谷底に、大きな狸が胸をとがり矢で射抜かれて死んでいるのが見つかった。
 聖とはいっても無智だったので、このように化かされたのである。一方、ただの猟師であっても思慮というものをもっていたので、狸を射殺して正体を暴くことができたのである。
あやしい古典文学 No.4