根岸鎮衛『耳袋』巻の八「狸縊死の事」より

心中未遂、桜の馬場

 最近のことだという。

 本郷、桜の馬場界隈のある店に、長く雇われている丁稚あがりの若い男がいた。
 同じ店に、田舎から出てきて働いている小女がいて、この二人、いつのころからか仲よくなって、夫婦として一生添い遂げようとかたく約束していた。

 ところが、女の実家から突然、こちらで婿をとるからと、店に暇を願い出てきた。
 二人は驚いて、『これでは、われわれの結婚の約束もとうてい果たせない』と、心中の決心をし、来世のことも契るなど、毎晩桜の馬場で忍びあって相談した。

 やがて、主人からも暇を出す期日などを言ってきた。もはや、日延べはできない。『明日の夜、桜の馬場で首を縊ろう』と決めた。
 翌日、男は店の用事で外出することになったので、
「何時ごろ、桜の馬場で待ち合わせよう」
と女に告げて出かけた。

 用事をすませた男が、暮れ過ぎに馬場へ来てみると、女はもう来ている。
 いよいよと覚悟を定め、用意の紐を桜に結びつけ、おのおの首に巻いて、一緒に木から飛び降りると、女はあっけなく縊れ死んだが、男のほうは、首が締まったけれど、地面に足がとどいたので、死ねなかった。

 そこへまた、同じ女がやってきた。見ると、男が死にきれずにもがいているし、隣で自分そっくりの女が縊死している。驚いて、ぎゃあ!と叫んだ。
 近隣の人が集まってきて、何はともあれ男をおろして介抱すると、息を吹き返した。そこで男女に委細を尋ねたところ、今はもうつつみ隠すことなく話したので、事情はすべて知られた。
 『それでは、縊死している女は何者?』ということになったが、そのうち、死体の総身に毛が生え出てきて、まぎれもない狸の姿になったのである。

 人々が、二人の主人にことのしだいを知らせると、主人は、
「二人とも、何年間もまじめに勤めてくれた者だ。死を覚悟するとは、よくよく思いつめたのだろう。どうして死んだりすることがあろうか」
と言って、親元に話して、二人を夫婦にしてやった。

 それにしても、かの狸は、なぜ縊死したのだろう。
 そのわけはわからないけれども、二人がたびたび桜の馬場で逢い引きし、心中の約束をしたのを聞いて、騙してからかおうという気になったのではないか。ただ、自分が死ぬことになるとまでは、思い及ばなかったのだ。
あやしい古典文学 No.11