『今昔物語集』巻第三十「平定文、本院の侍従に仮借する語」より

色男の蹉跌

 兵衛の佐(ひょうえのすけ)の平定文(たいらのさだふみ)、通称は平中という人がいた。上品で、容姿は美しく、立ち居振る舞いや言葉もあか抜けしていて、当時、この平中にまさる色男は世の中にいなかった。
 そんな男だから、人妻、娘、いうまでもなく宮仕えする女性たち、だれ一人としてこの平中に言い寄られない者はいないというありさまであった。

 同じころ、藤原時平という大臣の家には、侍従の君と呼ばれる若い女性が仕えていた。すばらしく美しいうえに、才気も申し分ない。
 平中はこの大臣の家にしょっちゅう出入りしていたので、侍従の君のすばらしさを耳にして夢中になり、我が身にかえてもと思うほど恋着した。しかし、侍従の君は、たびたび送る手紙にまったく返事もくれない。
 平中は嘆いて、『ただ<見た>という二文字だけでもいいですから、返事をください』と書き送ったところ、今度ばかりは、使いが返事をたずさえて戻った。喜びに取り乱しつつ開いてみると、自分が書き送った手紙の<見た>の部分を破り取って、薄紙に貼りつけてあるだけであった。
 平中はかっとなった。それから、哀しさと情けなさで、ふさぎこんでしまった。
 それが陰暦二月末のことである。

 『もうよそう。心をつくしてもむだなことだ』と決心して、その後は手紙も送らないで過ごしていたが、五月の二十日過ぎ、間断なく雨の降る真っ暗な夜、ふと考えた。『こんな夜に訪ねていったら、鬼のように非情な心の持主でも、哀れに思ってくれるのではないか』
 そこで、夜更けに宮中を出て、雨が音立てて降りしきり、行く道の見当もつかない闇の中をひた歩き、大臣の家までたどりついた。
 その家に仕える女性たちの住む部屋のあたりへ行き、以前より取り次ぎをしていた小娘を呼んで『思いつめた末にやってまいりました』と伝言させると、やがて小娘が帰ってきて、
「今はまだ他の人も寝ていないので、御前を下がるわけにはいきません。しばらく待っていてください」
とのことだったと言う。
 これを聞いて平中の胸は高鳴り、『そうだよ。こんな夜に訪ねてくる者を哀れに思わないはずがない。来てよかったなあ』と、暗い戸に寄り添って身を隠して待ったが、その待ちどおしいこと、何年もの歳月を過ごすような心地であった。

 二時間ほどして、人々が寝る気配があり、やがて内側に誰か来る音がして、引き戸の掛金をそっと外した。平中が喜んで戸を引くとなんなく開く。もう夢心地で、『おやどうしたことだ、身震いが止まらない。あまり嬉しい時にも身体が震えるものなんだなあ』
 しいて心を静めて部屋に入ると、そこには香のかおりが満ちている。寝床とおぼしいところをさぐると、柔らかい衣ひとかさねを身につけて、女が横たわっている。頭から肩にかけてほっそりと、髪は凍っているように冷ややかである。
 嬉しさのあまりぶるぶる震えるばかりで、語りかける言葉も思いつかなかったところ、女が言うには、
「たいへんなことを忘れていました。障子の掛金を掛けていません。行って掛けてきますからね」
 平中が、
「それでは、早く行っていらっしゃい」
と言うと、女は起きて、上にはおっていた衣を脱ぎおき、単衣と袴ばかりを着て行った。
 平中が服装を解いて待っていると、障子の掛金を掛ける音が聞こえ、『もう来るだろう』と思ったのに、足音は奥の方に去っていき、戻ってくる音もしないまま長い時間がたった。
 おかしいぞと思って、起きて障子のところへ行って調べると、掛金が向こう側から掛けられているのがわかった。
 平中はまたもや、かっとした。悔しさのあまり地団駄踏んで泣いた。それから、茫然自失して障子に寄り添って立っていたが、とめどなく涙の流れること雨に劣らない。
 『ここまで呼び入れておいて騙すなんて、あんまり酷い。こうとわかっていれば、掛金を掛けるというとき、一緒に行ったものを。私を試そうとしたのだろう。なんて間抜けなやつと思っているだろうなあ』と考えると、女に会えなかったよりもいっそうつらい。
 『夜が明けても、ここに居てやろう。侍従の君のところに平中が通ってきたと、みんなに知れわたればいいんだ』とさえ思ってみた。が、夜明け方になって人々が起きる気配がすると、やっぱりそれでは色男がだいなしだという気がして、平中は急いで帰っていったのだった。

 その後の平中は、『なんとか彼女の欠点を耳にして、嫌いになってしまおう』と考えたのだが、まったく悪い噂がない。
 ひたすら思い焦がれて日を過ごすうち、ふと『あんなにすばらしい女だけれど、便器にするものは我々と同じはず。それを見たら、百年の恋もさめるんじゃないか』と思いついた。
 そこで、『便器を洗いに行くところを奪い取って、中身を見てやろう』と、何気ないふりをして女の部屋のあたりをうろついていたところ、十七、八くらいのかわいい娘が、香染の布に便器を包み、赤地に絵のある扇で隠しつつ部屋から出てくるのを見つけた。
 これだ!と思って、あとをつけ、人気のないところで走り寄って、便器をひったくった。娘は泣きながら抵抗したけれど、強引に奪い取り、無人の小屋に持ち込んで、内から鍵をかけてしまった。

 金漆を塗った便器であった。肝心の中身はともかくとして、包んでいた布といいその便器といい、ありきたりのものとはかけ離れたすばらしさ。開けてげっそりするのが残念で、しばらくはじっと便器を見つめていたが、外ではさっきの娘がピイピイ泣いているし、こうしてはいられないと思い直した。
 おそるおそる蓋をとると、たちまち丁子のよい香りが匂う。その意外さに驚いて中を覗きこむと、薄黄色い液体が半分ばかりあって、親指くらいの大きさの黄黒い物体が三切れほど、丸まっている。
 『あれがウンコだよなあ』と思って見るのだが、香りがあまりにかぐわしいので、手近にあった木切れで突き刺して鼻にあてて嗅ぐと、黒方(くろぼう)という、数種の香を練り合わせた薫物のかおりであった。
 平中は、『ああ、とてもかなわない。彼女は天女かなにかなのだ』と感嘆し、なんとかして女と仲よくなりたいという気持ちに、もう狂ったように取りつかれてしまった。
 便器の液体を少し飲んでみたところ、丁子の香りが深くしみている。また、木切れで刺した物体の先をちょっと嘗めてみたら、苦くて甘く、かぐわしいこと限りない。
 尿に見せかけた液体は、丁子を煮てその汁を入れたのであり、ウンコのようなのは、野老(トコロ)と黒方にあまづらを混ぜて捏ね、大きな筆の軸に入れて押し出して作ったのだとわかった。

 それにつけても思うのは、『こんな細工自体は、ほかにも思いつく者がいるかもしれない。しかし、便器を奪って覗くやつがいるかもしれないなどと、そもそも誰に予想できるだろうか。彼女は常人の心を超えているのだ。この人間界の人ではない』
 それからというもの平中は、『どうしても彼女と仲よくなりたいなあ、まったく天女だよなあ、素敵だなあ、うふふ』などと、ただただ思い惑って、そのあげく病気になり、とうとう死んでしまったという。
あやしい古典文学 No.19