中川延良『楽郊紀聞』巻五より

田中伊兵衛の妻

 かつて田中伊兵衛は、三浦酒之允と心安く、いまだ幼少の酒之允のためにと、生計を援助していたが、その後、酒之允の姉に密通して家に連れ帰り、妻とした。
 その妻の名をおつみという。やがて女の子が生まれ、名をおさいといった。

 おさいが三歳のとき、伊兵衛はまた下役の某の娘に密通した。
 そこで、妻のおつみを離縁して、某の娘を家に入れようと思ったが、実家に帰すことは、先に密通のうえ家を出たことによって義絶されているため、できない。けれども、妻をうとましく思う心は日ましに強く、酷くつらくあたり、棒や杖で打ち叩くことがたえなくなった。
 伊兵衛の母親と姉も、同様に嫁を憎んで追い出そうとしたが、おつみは行くところがないから、決して出ていかない。

 文化七年の七月、お盆前の勘定の時期となったので、伊兵衛は三浦の家に、かつて援助した銭を催促した。ところが三浦は、当時の不義を理由に返そうとしない。そこで妻に、
「三浦へ行って銭を取ってこい」
と言いつけた。
 おつみは従順で素直な女だった。しかし、実家を訪ねるわけにいかない事情は家中のだれも知っていることだから、そのことを言って逆らった。伊兵衛はいよいよ腹を立てて打ち叩いたが、それでも行くことを承引しない。

 しきりに責めさいなむうちに、十三日の夜になり、『どうしても三浦に行って銭を取ってこなければ、家におくわけにいかない』と申し渡した。その夜は伊兵衛が打ち廻りの当番で留守していて、姑と義姉とが責めうながしたのである。
 おつみはついに堪えかねたのか、
「それでは行きます。娘を連れて行きます」
と言う。
 姑がやるまいとする娘のおさいを、無理にかき抱いて、
「この家を出るからは、もう戻るつもりはありません。私が死んで後、この娘ひとり残り、成長して他人に指さされるようなことになっては、生涯の恥でございます」
と言いつつ、連れて出ようとするのを、義姉がしがみついて娘をもぎ取ると、嫁を上がり段から下へ突き落とした。
 おつみは、ついにそのまま家を出ていった。

 さて、三浦へは行くわけにいかず、どこをさまよっていたのか夜更けて、伯母の吉村紀内を訪ね、伯母は留守だったので、榎ノ木橋に腰かけて休んでいたという。きっと伯母の帰るのを待っていたのだろう。
 その後、光清寺の境内を通り、寺の内から、立ち寄りなさいよ、と声をかけたところ、急ぐ様子で通り過ぎたということだ。

 翌十四日の朝、下浜に住む宮川何某の女房が磯物を取りに行って、女が身投げして死んでいるのを見つけ、すぐに打ち廻り番所に届けた。
 伊兵衛が当番であったから、検視に行ってみると、自分の妻である。
「急に疝癪がおこった。歩くこともできない」
と同役に言って、家に帰ってしまった。
 その後、検視の手続きがすみ、棺に収めて宝泉寺に葬った。

 ところが、十六日の夜から、おつみの亡霊が田中の家に現れて、生前苛まれたことの非道を言い立てて伊兵衛を責めた。
 死ぬときには妊娠していたらしく、嬰児を抱いてきて、
「この子を返すから、娘を渡せ」
などと言う。
 寝るやいなややってきて、鶏の声とともに帰るのが、毎夜のことである。伊兵衛母子ともども、亡霊の責めに返答して、毎夜まったく眠ることができない。

 そのころ、田中の家を仕切って鉄砲組の伴吉という者が住んでいたが、壁一つ隔てているだけなので、その物音で、これも眠ることができない。
 あまりにひどいときに、壁の隙間から覗いてみると、母子ともに人とつかみ合って、何事か言い争う様子である。相手の姿は見えず、声は低く聞こえるが、何を言っているのかわからない。母子の言葉のみ、やかましく聞こえる。その間ずっと、娘のおさいは『かかさん、かかさん』と泣いている。
 これが毎晩だから、はなはだ困った伴吉は、隣家にこっそりこの話を打ち明けて、相談した。急いで転居しようにも適当な家がなく、裏手の大神宮の番人の家を仕切ってもらって、なんとか落ち着いたという。
 町内の人々も多数、夜更けてから、大きな丸い火が田中の家の屋根の上に留まっているのを見た。

 さて、伊兵衛は堪えかねたのであろう、水施餓鬼や懺法といった仏事、法要を行った。すると、四五日は止むけれども、その後はまた、前と同じようにやって来る。月に二度も水施餓鬼を行ったが、その都度、四五日たつと元どおりになった。
 伊兵衛は疲れ果てて痩せ衰え、薬の療治も甲斐なく顔色は青ざめていった。そして、その年の冬、用事を作って朝鮮に渡ってしまった。

 伊兵衛の留守中も、亡霊の出現は止まなかった。
 また、娘のおさいは、母親が死んで以来ずっと、『かかさん、かかさん』と泣くこと、日夜やまなかった。食べ物をあてがうと、
「今、かかさんの乳を飲んだ」
と言って口にしない。行水させようとしても、
「今、かかさんとした」
と拒む。ただ泣くばかりで、たまに泣きやんで遊んでいると思うと、
「今、かかさんのそばにいたの」
と言う。

 こうして、おさいは痩せ衰え、やがて足は大箸ほどになり、顔に死相が現れてきた。
 翌八年の七月十五日の夜、伊兵衛の母親が寝所へ行ってみると、寝ていたはずの孫娘がいない。驚いて捜したところ、座敷にしつらえたお盆の魂棚の上にうつぶして、おさいは死んでいた。
 その後、毎晩来ていたおつみの亡霊は、二度と現れなかった。

 娘の死後、伊兵衛が帰国し、下役の某の娘を家に入れて妻とした。
 その妻は、はじめは何事もなく過ごし、男子を生んだが、その後は病身となり、あれこれ患って何年も寝ついたあげく、死んでしまった。
 伊兵衛も、いつのころからか小便が洩れつづける病にとりつかれて、何年も癒えず、そのまま死んだのである。
あやしい古典文学 No.20