浅井了意『伽婢子』巻之十三「山中の鬼魅」より

峠の夜

 小石伊兵衛尉は勇猛をもって知られた武士で、天正五年十月、織田信長に反旗を翻した松永久秀の麾下、山和の片岡城に籠っていた。

 永年重ねた悪行の報いか、松永軍の旗色とみに悪く、寄せ手の大軍は士気盛んであった。
 落城は時間の問題と見た小石は、夜にまぎれてただひとり城を脱出すると、弓削(ゆげ)というところをたずねて、隠していた妻を伴った。そこから夫婦ふたりだけで、夜どおし竜田道を越えて落ちていこうとしたのである。

 妻は臨月で身重く、足だるく、峠までたどりついたときには疲れ切っていた。
 道ばたでは軍兵に見とがめられるかもしれない。道を外れて五十メートルばかり山中に入って休んでいるところに、女が泣きながら呼ぶ声が聞こえてきた。歩くとも転ぶともなく、必死で峠を登ってきたらしい。
 よくよく聞けば、ずっと召し使ってきた少女の声である。妻の身の回りの世話をさせていたが、落人が大勢で人目に立つわけにはいかないと、弓削においてきたのであった。
 あとを慕ってきた気持ちをふびんに思い、
「どうした。わしらはここだぞ」
と声をかけると、少女は心からうれしそうに、
「わたしを捨てて行くなんて、……。たとえ湯の底水の底までもお供するつもりでしたのに。ふたりだけで落ちて行かれては、生きる望みもありませんから、あとを追ってまいりました」
と言う。
 小石と妻は心をうたれ、少女を可愛く、また頼もしく思ったのである。

 いましばらくと、三人一緒に休んでいると、妻がにわかに産気づいて苦しみだす。
 真夜中のことで、月はなく、真っ暗である。小石は途方に暮れたが、少女はかいがいしく世話し、無事に赤ん坊を出産させた。
 『この娘がいなかったら、どうなっただろう。よくぞあとを慕って来てくれた。すべて真心ゆえだ。ああ、男であれ女であれ、これほど主君を思う者をこそ召し使いたいものだ』と、小石は安堵の胸をなでおろしつつ思うのだった。『さて、夜が明けたら、どこか山中の家を訪ね、一時そっと隠れて、妻と子を保養させよう』
 産養(うぶやしない)の祝いをすることも今はかなわないので、せめて携えていた焼米を取り出し、妻に与えて元気づけた。

 妻は木の根元に寄りかかって休み、生まれた赤ん坊は少女のふところに抱かれていた。
 妻が暗闇をすかして少女の肩口をじっと見ていたところ、少女はふところの赤ん坊を、舌を出して舐めているようだ。あやしく思って、なおよく目を凝らして見ると、少女の口が大きく耳まで裂け、赤ん坊の頭を口に含んで、舐めるようにして喰っているのだった。
 たちまち頭を喰いつくし、次に肩から右腕をちぎって喰いはじめる。
 妻は騒がず、そっと眠っている夫を揺り起こした。
 目を覚まして、そのありさまを見た小石は、静かに刀を抜きざま、さっと切りつけた。
 その瞬間、少女は鞠のように弾んで梢に飛び上がり、凄まじい鬼の姿を現して飛び降りたかと思うと、二十メートルほど先の岩の上に立って、赤ん坊の足を喰っている。
 小石は懸命に走り寄って切りつけるけれども、悪夢の中で戦っているように、太刀はただ空を斬る。
 しばらく追い回すうち、鬼は赤ん坊を喰いつくして、蝶か蜻蛉のように飛び上がると、虚空に消えてしまった。

 力なくもと居た場所に引き返すと、妻がさらわれていた。
 呼べども呼べども応える声は聞こえない。どこへ連れ去られたのか。
 くやしさと悲しさで血の涙を流しながら、見知らぬ山中をさがし歩き、明け方になって、道筋から深く入った とある岩の上に、妻の頭が載っているのを見つけたのである。
 いかなる妖怪変化のしわざか、まったくわからない。

 小石は、涙とともに妻の頭を埋めると、山和の郡山の南方、大谷村の縁者を頼ってしばらく隠れていたが、悲しみは癒えず、世のはかなさを思い知って、ついに出家した。
 高野山の麓の新別所にこもって修行の年月を過ごしたというが、その後の行方は確かでない。
あやしい古典文学 No.28