根岸鎮衛『耳袋』巻の五「二十年を経て帰りし者の事」より

二十年間何をしていた

 八幡は、近江の国でいたって賑やかな町だという。
 寛延か宝暦のころ、この町の松前屋市兵衛という金持ちが、妻を迎えてまもなく、忽然と姿を消してしまった。家族も使用人も嘆き悲しみ、金に糸目をつけず方々をたずね捜したが、杳として行方は知れない。

 市兵衛には適当な相続者がいなかった。
 妻は親族から迎えていたから、これに婿をとって後継ぎとするとともに、行方知れずになった日を市兵衛の命日として弔ったのである。

 彼が消えたのは、次のような次第であった。
 夜分のこと、市兵衛は下女を連れて便所に行った。下女は外で灯火をともして待っていたが、いつまで待っても主人は出てこない。
 妻は、夫がなかなか帰らないので、下女との仲を疑って便所まで確かめに行った。しかし、下女は外で所在なげに立っている。中の夫に、
「どうしてそんなに長いの?」
と声をかけたが、いっこうに答えがない。
 便所の戸を開けると、だれもいなかった。市兵衛は便所で消えてしまった。

 それから二十年後のある日、便所から人を呼ぶ声がするので行って見ると、あの市兵衛が、消えた時の衣服のままでしゃがんでいる。
 皆は大いに驚き、あれこれ言って尋ねるに、はっきりと答えもしない。ただ、腹が減ったと言うので、さっそく食事をすすめたりするうち、着ていた衣服は埃と化して散り失せ、丸裸になってしまった。
 いろいろ薬など与えてみたけれど、何か以前のことを思い出す様子はない。その後は、病気とか痛む所の祈祷を受けたりして、日を送っているということだ。

 八幡の者が、直接見たこととして話してくれたのだが、市兵衛と妻と後から来た婿と三人で、妙なつきあいになったことだろうと笑ったのである。
あやしい古典文学 No.36