西村白烏『煙霞綺談』巻之一より

狼なんかこわくない?

 狼は、絵に描けば犬とほとんど変わらない。しかし、その眼は闇夜に星のごとく輝き、口は耳まで裂けている。啼き声は牛のようで、人を恐れて逃げることはない。
 享保の末から狂犬病がはやりだした。病犬に噛まれた人もまた、犬と同様に狂いまわったあげく死んでしまう。駿河・遠江のあたりでは狼にも病気がひろがり、狂狼が人を噛むという恐るべき事件がある。

 私は近郷の知人を訪ねて行く際、野山で何度か狼に出会ったことがある。
 山村の人は狼をしょっちゅう見ているから、さして恐れることはない。こちらから手出ししなければ、人を噛むものではないからだ。
 そうはいっても、道でばったり行き合うと『どうしようか』と立ちすくんでしまうが、相手は少しも止まらない。まるで人など眼中になく、のそのそ歩いてくる。しかたがないので道をよけて見ぬふりをしていると、狼はゆうゆうとわが道を進み行き、後を振り返ることなど決してしない。
 病狼はまったく違う。鳥のごとく飛び走り、人を見ては猛然と噛みつく。そんな狂奔状態で、わずかの間に数十里を往来するのである。

 また、狼は性欲が淡泊だという。
 そうであろう。たびたびこの獣に出会う人に尋ねたところ、狼が尾を立てて走るのを見た人はいないらしい。犬が怯えて逃げる時のように尾を股間に挟んで、陰部を隠している。
 そんな性情だから、交尾中に人が行き合わせると、狼は相手を見覚えて、何年も後であろうと必ず、受けた恥辱を報復するという。

 運悪く狼の交尾を見てしまったら、どうすればいいか。
 男女を問わず衣服を脱ぎ、陰部をあらわに見せて通れば、恥ずかしさがオアイコになるので、害を受けないという話だ。
あやしい古典文学 No.45