『宇治拾遺物語』巻第六「信濃国筑摩の湯に観音沐浴の事」より

おれは観音

 信濃の国の筑摩温泉には名高い薬湯があって、大勢の湯治客でにぎわっていた。
 そこに住む人がある夜の夢に、
「明日の正午に、観音様がご入浴なさるぞよ」
とのお告げを聞いた。
「どんな様子でおいでになるのでしょうか」
と尋ねると、お告げの声が答えていわく、
「三十歳くらいの黒髭の男だ。綾藺笠をかぶり、節黒のやなぐいを負って皮を巻いた弓を持って、紺の狩衣に鹿皮のむかばきで、葦毛の馬に乗って来る。それこそ観音様であるぞ」

 お告げの話は朝のうちにたちまち広まって、薬湯に続々と人が詰めかけた。湯を入れかえ、周りをきれいに掃除してしめ縄を引き、花や香を供えて、人々は観音の到着を今か今かと待った。
 正午を過ぎ、二時近くになってやっと、夢のお告げそのままの男が現れた。顔にはじまって、衣服、馬と、何から何までお告げのとおりである。
 集まった人々はいっせいに、額を地にすりつけて伏し拝んだ。

 やって来た男は、わぁ! と驚き、
「これはまた、何事だ」
と尋ねるけれども、皆、うへぇ! とひたすら拝むばかりである。
 中に僧侶も一人いて、額のところで手をすって拝んでいる。男がその傍に寄って、
「どうしたんだ。おれを見て、みんな拝んでいるじゃないか」
と問うと、僧が夢のお告げのことを語った。
「えっ、おれが観音? ちがうよ。狩で落馬して右腕を折ったから、湯治に来たんだ」

 そのまま行き過ぎようとすると、人々は、男の後にぞろぞろついてきて、拝みに拝んで大騒ぎする。
「やだなあ、やめてくれよ。おれは見てのとおりの侍だ。観音じゃないんだ」
 そう言いながら、あっちこっち逃げ回ったが、行く先々につきまとわれ、連日連夜さんざんに拝みたおされた。
 とうとう根負けし、ヤケクソで、
「ああ、そうかい。わかったよ。そんなに拝むんだから、おれはきっと観音なんだろう。ええい、こうなったら坊主になってやる!」
と、弓矢や太刀を投げ捨てて、法師になってしまった。
 人々は大喜びで、
「ほらみろ、やっぱり観音様だ」
と、涙を流して感動している。

 中に、この男を見知っている人がいて、
「あれは、下野の国の『はとうぬし』さんじゃないか」
と言ったものだから、人々は、この男を『馬頭観音』と呼ぶようになった。
 その後、覚超僧都の弟子になって横川に住み、さらに後には、土佐の国に移り住んだという。
あやしい古典文学 No.63