橘南谿『東遊記後編』巻之四「大魚」より

鯨を呑む大魚

 北の蛮地、夜国のさらに沖のクルウンランドなどという国の海には、鯨が無数におり、その中にはものすごく大きなものもあるそうだが、蛮人の言うのを伝え聞いただけだから、事実かどうかもあやしい。
 ところが、私がじかに奥州の漁師に聞いた話に、北海道の東の海にいる『おきな』という魚のことがある。

 おきなは体長が一万メートル前後にも及び、その全身を見た人はいない。春、南に現れて、秋には北へ帰る。北海道の漁船は、しょっちゅう出会うらしい。
 この魚が近づくと、海底が雷鳴のごとく鳴り、風もないのに波がたちさわいで、鯨どもが東西に逃げまどう。こんな状態になったら、『そら、おきなが来た!』と、漁船も早々に逃げ帰るのであった。
 まれに海上に浮いたのを見るに、大きな島がいくつもできたようである。おきなの背中や尾びれなどが、少しずつ見えるのであろう。
 体長三十メートルや四十メートルの鯨を呑むのは、鯨が鰯を呑むのにひとしいから、鯨はこの魚を恐れて逃げるのである。

 北海道の東の海は奥州の東でもあるが、そこには数万里のあいだ国がなく、世界第一の大海だから、このような大魚も生ずるのだろう。

 体長一万メートル、二万メートルなどという大魚がいるとは、にわかに信じられることではないが、一方、いないということもできない。
 中国は大海から隔たった国だから、昔の文人や学者は、三十〜四十メートルの鯨が南海にいるという話を、たいそう疑っていたようだ。大海を知らなかったからである。
 日本は四方を海に囲まれているから、子供でさえ鯨の存在をあやしむことはない。
 そういうことから考えると、数万里に広がる大海には、格別の大魚がいるのも、あやしむべきこととは言えないのではないか。
あやしい古典文学 No.86