橘南谿『東遊記』巻之五末「不食病」より

不食病

 三河の国の巨海村にある天祥山長寿寺は、昔は荘厳たる大寺院であった。
 鎌倉の源頼朝の娘が足利義氏の正室となり、義氏は三河に封ぜられて吉良氏の始祖となった。正室の没後、長寿寺を建立し、寺領を寄付したが、吉良氏が衰えるに及んで寺も衰微し、今ではやっと名が残っているだけで、唯一の建物である本堂に地蔵尊を安置し、一人の尼僧が香華を供している。
 その尼が、二十年来断食の行をおこなっている尊い人だと噂になり、参詣して拝む人で大賑わいだという。

 私の友人の百井塘雨(ももいとうう)は、漫遊の旅の途中、わざわざその寺に参詣して様子を見た。
 尼の顔色は、多少青ざめているけれど、身体の肉づきは普通の人よりちょっと太っているくらい、言葉はややどもる感じであった。
 塘雨は疑わしく思って、近隣に宿をとり、さらに詳しく調べたが、二十年来の断食は嘘ではないらしい。

 この尼は十四五歳のころから少食であった。十六七歳で同じ村の家に嫁いだが、病身だという理由で離縁され、実家に戻って後、尼となってこの寺に住んだのである。
 尼になってから少食の度合が進み、一月に二三度、少し食べればいい、という状態になった。その後、数か月の間に一度、少し食べるだけになり、ここ数年はずっと食べていない。ただ、時々わずかの湯を飲むだけである。
 このように断食していながら、身体が特に弱るわけではない。先年、信州の善光寺参詣の数十日の旅に一食も摂らなかったにもかかわらず、普通に歩行して無事帰還した。
 無理に断食しているのでなく自然にそうなったというところに、人々は不思議の思いを抱いて、信仰し、参詣するのである。
 庶民を惑わすいかがわしい尼ではないかと、その筋が疑って吟味したこともあったが、結局、病気のせいでそうなのだとわかって、おかまいなしとなった。
 以上の次第は、塘雨があやしみながら私に語ったことである。

 この病気は、昔の医学書には書かれていない。しかし、近年はけっこう多い病気である。香川南洋もこの病気を論じて、『不食病』と名づけている。
 私も数人を治療したが、ちゃんと癒った例はない。女性に多いが、男も二人ほどあった。
 女性は、結婚して出産などすると、その一両年は常人と同じく食べて、数年の後にまた食べなくなる。また、男であれ女であれ、チフスとか赤痢、その他の流行病などで生死にかかわるほどの重症になり、それが快方に向かうときには、かならずよく食べる。病後一年も過ぎて通常の体調に戻ると、まただんだん食べなくなる。
 この病気の最初は米穀を嫌って、かき餅や豆腐、蕎麦のたぐいを少しずつ食し、あるいは酒ばかり飲んで、徐々に何も口にしなくなるのである。

 特にこの病気を不思議がることもないかもしれない。
 一生涯、食べるのはよく食べながら、糞をしない人だっている。
 ほかにも奇病怪症が天下にさまざまあるのを、見たり聞いたりしている。私の本業は医師であるから、そういうことには特に気をつけていて、病気にかかわる珍奇のことばかりを書き集めた『医話』という数巻の書物も著している。
 不食病のことは、塘雨が語り、また彼の著書にも載っているので、ここに記録したのである。

 しかしながら、この種の奇怪なことには、愚かな庶民を迷わして金銀を手に入れようというマヤカシが多く、まず十中八九は信じてはならない。
 昔にも、こんなことがあった。
 一人の行者が断食して仏道に精進し、たいそう霊験があると、備前の国より上奏があり、天皇はすばらしいことだと思って、行者を京都に召して神泉苑に住ませた。
 京都とその周辺の男女はこぞってこれを信仰し、参詣に集まった。数日の後には、もっと遠方からも人が上京して参詣したが、それぞれの願いが成就しないということはないありがたさ。評判は日増しに高く、上は王侯から下は庶民にいたるまで、崇め奉らない者はいない。
 ところが、ある人がこの行者を見て、
「あの上人は、夜中にこっそり、米を水で飲んでいるはずだ」
と語った。
 便所を覗いて調べた人がいて、未消化の米の混じった糞が山をなしているのを発見した。
 かくしてインチキがばれ、信仰は失われた。上人は嘲笑に堪えられず、夜にまぎれて逃亡したのである。

 行者が逃げたあとも、どういうわけだか、婦女子なんかは「米糞上人」と呼んで信仰したのだそうだが、まあ、いずれにせよ、最近の奇跡や不思議の多くは、この米糞上人のたぐいである。
あやしい古典文学 No.118