『今昔物語集』巻第三十一「北山の狗、人を妻と為す語」より

北山の神

 その昔、京都に住む若い男が北山のあたりに遊びに行って、どこともわからない野山に迷いこんでしまった。
 まったく見知らぬ道で、引き返そうにも、どう行ったらいいかわからない。もう日が暮れるというのに、一晩泊めてもらえるような人家もない。
 途方に暮れていると、谷あいに小さな庵があるのが、遠くかすかに見えた。
 男は『よかった。こんなところにも人が住んでいるんだ』と喜んで、草木をかき分けて行ってみると、小さな柴の庵である。

 だれかがやって来た気配に、庵の中から、年のころは二十歳あまりの気品のある女が出てきた。これを見て男はいよいよ嬉しくなったが、女のほうは、男を見て呆れた様子で、
「まあ、こんなところに、どういうわけでいらっしゃったのですか」
と問う。
「山を散策しているうちに、道に迷って帰れなくなりました。日も暮れて泊まるところもなく、困っておりましたので、庵を見つけて喜んでやって来たのです」
と説明すると、女は、
「ここは人の来るような場所ではありません。主人はもうすぐ帰ってきます。あなたがいるのを見たら、きっと私といい仲の男だと疑うでしょう。そうなったらどうするのです」
「なんとか取り計らってもらえませんか。いまさら帰ることはできないので、今晩だけはここに泊めていただきたい」
 女はしばらく考えていたが、
「では、こうなさいませ。私が『もう何年も会いたくて会えなかった兄が、山歩きで道に迷い、思いがけずここにやって来たのです』と言いますから、あなたもそのつもりでふるまうのです。それと、京都に帰ったら、ここに私たちがいることを決して人に話してはなりません。いいですね」
 男は喜んで、
「ありがとうございます。そのとおりにしますとも。人に話したりなんか、絶対にしませんから」
 そこで女は男を中に入れ、庵の隅に筵をしいて休ませた。

 やがて女が近寄ってきて、こんなことを言った。
「じつは、私は京都の某所に住んでいた人の娘なのです。あるとき異界のものにさらわれ、とりこになって何年も、このように暮らしています。不自由な暮らしではありませんが、でも……。ああ、まもなく、そのものが帰って来るので、ご覧になることでしょう」
 言いつつ女はさめざめと泣く。
 男が『どんなものなのだろう。鬼だろうか』などと恐ろしく思っているうち、すっかり夜になり、外でたいそう恐ろしい吼え声がした。
 その声に、男は身も心も震えあがった。しかし女が戸を開けて、入ってきたものを見ると、大きくて立派な白犬であった。男は『なんだ、犬だったのか。すると、女はこの犬の妻なのだ』と得心したのである。
 犬はすぐに男を見つけて、唸り声をあげたが、女が、
「長年会いたいと思っていた兄が、道に迷って思いがけずここに来たのですよ。もう嬉しくて……」
と言って泣くと、犬は納得した様子で、かまどの前に行って身を伏せた。女は糸をつむぐ仕事を続け、犬はそのかたわらにいるのであった。
 やがて女が食事を用意してくれたので、男はそれをおいしく食べて寝た。犬もまた女とともに寝た様子であった。

 夜が明けると、女が食物を持ってきて、男に念を押すように言った。
「ここに私たちがいることを、決して、決して人に話してはなりませんよ。また時々いらっしゃい。私が兄だと言ったことは、あのものも承知しています。ですから、頼みごとがあればかなえてくれるでしょう」
「断じて人には話しません。いずれまた参ります」
 そう応えて、男は京都に帰っていった。

 京都に帰るとすぐ、男は、
「昨日、しかじかのところに行って、こんなことがあった」
と、会う人ごとにしゃべり散らした。聞いた人がおもしろがって、また人に話したから、たちまち巷の大評判になってしまった。
 そのうち、恐いもの知らずの若者が集まり、
「北山に、人の女を妻にしている犬がいるそうだ。行って犬を射殺し、女を奪い返そうではないか」
と言って出発した。実際に行ったあの男を先頭に立てて進んだのである。

 百人か二百人という者どもが、手に手に弓矢や刀をもって、男の案内する場所に行ってみると、ほんとうに谷あいに小さな庵がある。
「あれだ、あれだ!」
などと皆が大声で騒いだので、犬が驚いて出てきて、以前に来た男の顔を見るやいなや庵に戻った。
 しばらく後、犬は女を鼻先で押しつつ庵から出てきて、そのまま山奥に立ち去っていった。取り囲んで大勢が矢を射たけれど一つも当たらず、追いかけると、鳥の飛ぶような速さで、あっという間に山中にまぎれてしまった。
 このありさまを見た一同は、
「あれは、この世の尋常なものではないぞ」
と言って、引き返したのであった。
 道案内した男は、帰るとすぐ、
「気分が悪い」
と寝込んだが、二三日して死んでしまった。

 こういう次第について、教養のある人は、
「その犬は、神かなんかだったのだろう」
と語ったそうだ。
 男はまったく、つまらぬことを話したものである。信義のない者は、その背信によって身を滅ぼすのだ。
 その後、犬の居場所を知った人はいない。
「近江の国にいた」
などと、人は言い伝えている。また、やはり神などであったのだろうかと、語り伝えたという。
あやしい古典文学 No.127