『梅の塵』「八百比丘尼の事」より

八百歳

 八百比丘尼(はっぴゃくびくに)は、八百代姫(やおよひめ)ともいう。若狭の国の遠鋪郡小浜の西、青井の白玉椿というところに祠がある。
 「若狭記」によれば、元和五年、白玉椿のあたりに毎夜、尼が姿を現して舞い遊ぶのが見られた。人に行き会うと姿をかき消してしまう。
 その昔に八百比丘尼が住まいした場所だから、彼女の霊魂であろうということになって、同地の神主の菊池某が祠をたて、「八百代の祠」と名づけた。以来、妖しいものは出なくなったという。

 また、八百比丘尼が入定した場所だという横穴が、小浜の空印寺にある。時を経て穴は埋まり、今ではごく浅くなっている。
 八百代姫の祠のほうは近年に修復され、ずいぶんきれいになった。

 土地の言い伝えでは、あるとき漁師が、珍しい魚を獲らえた。頭が魚のそれではなく、まるで人面とでも言うべき様子をしていて、身は痩せていたという。
 漁師は、珍しい魚を獲ったので皆にふるまおうと、親しい仲間を招いた。
 漁師が外で魚を料理しているとき、やって来た客の一人が、『珍魚だという話だが、どんな魚を獲ったのだろう』と思ってひそかに覗き見たところ、そこらに切り捨ててある魚の頭が人の顔だったから仰天した。
 引き返してほかの客たちにそのことを告げ、
「いかに珍魚だからとすすめられても、食べるもんじゃない。世に人魚という魚にちがいない」
と囁いたのである。
 そうするうち主の漁師が、料理ができたと言って現れた。
 酒が出て、例の魚は焼魚で出てきた。もともと痩せた魚だったから、各人少しずつであった。
 皆気味悪く思っていたので、食べたふりをして紙に包んで懐に入れ、いやはや珍味! などと誉め言葉を述べて、やがて帰っていった。
 ほかの客は途中で懐のものを捨てたが、一人だけ酒を過ごしたせいか、そのまま家に帰ってしまった者がいた。これが後の八百比丘尼の親で、尼は幼かったから、帰ってきた父親に甘えてみやげをねだる。
 父親が紙に包んだものをあれこれ取り出して与える中から、尼は例の魚を取って口にした。
「あ、それは食べてはいかん!」
ととめたときには、もう食べてしまっていた。

 その後これといって別状もなく、年月が経って尼は年頃になり、他家へ縁づいた。そして、夫とともにごく普通に年老いていった。
 ところが、夫が死ぬとにわかに、嫁に来た頃の姿に若返った。
 当然、人々は奇怪なことだ思う。それゆえ彼女を嫁にしようとする者は周囲にいなかったが、やがて他国の人に縁づいていった。
 今度もまた、夫とともに年老いていって、夫が死ぬと一気に若返った。尼は自分でもあさましく思ったのであろうか、それから身を隠し、行方知れずになった。

 長い長い年月が経った。
 尼は、昔のあれこれを語り残してのち、建康寺(後に空印寺と改称)の山中に入定したが、何も食べないのに何日たっても死ななかった。
 死なないまま、穴をだんだん掘り進んで、ついに今の八百代姫の祠のある場所に至った。
 入定したとき、尼の年齢は八百余歳だったと伝えられる。

 以上、どうもあやしげな話だけれども、土地の言い伝えをそのまま記しておいた。
 「白玉椿」というのは、赤い斑点のまじった白椿が祠の近くにあって、それが地名になったのである。
あやしい古典文学 No.133