浅井了意『狗張子』巻之三「伊原新三郎、蛇酒を飲むこと」より

蛇酒は効く!

 元和年間のことだ。
 浪々の旅を続けていた伊原新三郎という侍が、ある日、宿を出立して三河の三方ヶ原にさしかかった。

 暑い夏の日ながら、梢に鳴く蝉の声を涼しく聞いて、夢うつつのようにして歩いていくと、日は早くも山の端に傾き、夕風がやわらかに吹き起こる。
 道のほとりに林があり、木の間をすかして見ると、まだ新しい家が四五軒あった。餅や酒を商う店もあるようだ。
 少し休もうと立ち寄ると、年のころ十五六のきれいな娘が出てきて、
「ここはお武家様がお遊びになるところなの。しばらくお休みになってね」
などと言う。
 その物言いがかわいらしく、店に入るとほかにだれもいない様子。新三郎が誘いかけると、いやがるそぶりなどまるでなく、
「父も兄も留守だから、遠慮しなくていいのよ」
と、すっかりその気になってしなだれかかってくる。新三郎は大喜び。……

 あれこれするまに日はとっぷりと暮れた。
「今まで何も召し上がらないで、きっとお疲れね」
と、娘は餅を取り出してすすめてくれる。
「酒はないか」
と言うと、
「いい酒があるわ」
と奥に入って、杯を取りそろえて持ってきた。
 新三郎は元来酒飲みだ。娘を相手に二杯三杯と杯を重ね、なくなったので、娘はまた奥に取りに入った。
 娘のあとをそっとつけて行って見ると、店の奥には巨大な蛇が釣り下げられていて、刀でその腹を刺し、滴る血を桶に受けて、そこに何か加えて酒にしているのであった。

 新三郎はぎょっとして、恐ろしさのあまり外へ走り出た。すかさず娘が追ってきて、しきりに声を立てている。
 すると、東のほうからも何ものかが呼応して、
「せっかくの獲物に逃げられたぞ!」
と叫ぶ。
 新三郎が振り返ると、身の丈三メートルほどの化けものが追ってきていた。
 林の中に逃げ込むと、何だかわからない雪のように白いものが、木の根元から立ち上がった。
 林の外から大声が聞こえる。
「今夜そいつを取り逃がしたら、明日われらはひどい目にあうのだ。逃がすな! 逃がすな!」

 新三郎は必死に逃げて、やっとのことで町外れまでたどり着き、そこらの家の戸を叩いた。
 開けてもらって中に入っても、喘ぐばかりでものも言えない。だいぶたってからやっと、こんなことがあったと語ったところ、その家の主人は驚いた。
「その林のあたりには、茶店どころか人家もない。きっと妖怪に遭って、恐ろしい目を見られたのでしょう。遠方からの旅人が時々誘拐されるのです。一晩中おびやかされ、帰って後に病気になってしまう人もいる。あなたは早く逃れて何事もなかったのは、まずはめでたい」

 あまりの不思議さに、新三郎は大勢の人を連れて、酒を飲んだ茶店の所に行ってみたが、なるほど、人家もなければ茶店もない。人里離れた野原の果てに草ぼうぼうと繁って、ものすさまじく、もの寂しいばかりだ。
 見れば、六七センチの人形の手足が少し欠けたのが、草の中に落ちていた。
「これが娘に化けていたのか」
 傍らには、長さ六十センチほどの黒い蛇が、腹のあたりが裂け破れて死んでいたのである。
 その東のほうで、人の死骸が見つかった。肉は雨露にさらされながらも筋骨はまだ付いたままで、白いことは雪のようだった。
 新三郎たちは、これらすべてを打ち砕き、薪を積んで焼いて、堀の水に沈めてしまった。

 その後のことだが、新三郎はこのところ中風の気があり、癩病の兆候さえ出ていたのに、蛇酒を飲んだせいか病は癒えて、すっかり元気になったそうだ。
あやしい古典文学 No.145