根岸鎮衛『耳袋』巻の二「猫人につきし事」より

猫が憑いた場合

  母親に化けた猫を殺した話を聞いて、ある人がこんなことを言った。



 重大な物事を取り計らうときには、心を静め、あらゆる角度から考えた上で行わなければならない。というのが、猫が人に憑くということもあるようなのだ。

 駒込あたりに、ある同心と母親が住んでいた。
 息子の同心が昼寝をしていると、イワシ売りが表を通りかかった。母親が聞きつけて呼び込み、片手に銭を持って掛け合った。
「このイワシ残らず買うから、値段をまけなされ」
 しかし、イワシ売りは銭の高を見て、
「そればかりで残らず売るなんて、とんでもない。とてもじゃないが、まけるわけにいきませんぜ」
と嘲笑した。
 にわかに母親は激怒した。
「いいや、残らず買うのじゃ!」
とわめきざま顔面は猫となり、口は耳まで裂けて、振り上げた手の恐ろしさは言いようもなかった。

 イワシ売りは キャッ! と叫んで荷物を投げ捨て、一目散に逃げ去った。
 その物音に息子が目を覚まして振り向くと、母の姿はまったくもって猫である。
『さてはわが母、この畜生めに殺されたか。無念』と、枕もとの刀を取ってバッサリ斬り殺した。
 騒ぎを聞いて、近所の者が駆けつけた。
 見るに、斬られている死骸は猫ではなく、同心の母親に相違ない。
 そこへイワシ売りが荷物を取りに戻ってきた。この者も、
「あれは間違いなく猫だった」
と言うが、なにしろ死骸は顔面も四肢も母親に違いないので、やむをえず息子は自害したという。

 これは猫が憑いたという例らしい。軽率なことをしてはならないということだ。
あやしい古典文学 No.152