荻田安静『宿直草』巻二「女は天性肝ふとき事」より

死人を渡る女

 摂津の国、富田の庄の女が、隣の郡の恋人のもとへ、夜ごと通っていた。
 通う道のりは四キロ以上もある。そのうえちゃんとした道があるわけでもない。田のあぜ道をたどり、里の犬には吠えられつつ、人目を忍んで通うさまは、まさに恋の奴隷といったところであった。

 通い路の途中に、西河原の宮といって、森の深いところがある。そこを越えると小川があり、一本橋を渡らなければならない。
 ある夜、女が小川のところまで来ると、いつもの橋がなくなっていた。どこか渡れるところはないかと川に沿って歩いていたら、偶然にも一人の死人が、川を差し渡してあおむけに横たわっている。
 これ幸いと、死人を橋にして渡った。
 その時、死人の口が、ふと女の着物の裾をくわえて離さない。えい! と引き離して、そのまま歩いていったが、百メートルばかり行ったところで考えた。
「死人は、……死んでいるのよ。だから意識なんかない。なのに、どうして裾をくわえたのかな。不思議よねえ」

 そこで、また元のところに戻って、わざと裾を死人の口に入れ、胸板を踏んで渡ると、さっきと同じようにぐっとくわえた。『さては、……』と思って足を上げてみると、口が開く。
 思ったとおり、死人に意識があるはずはない。足で踏むと踏まないとで、口を開けたり閉じたりするのだ。
「なあんだ、そっかあ。わかったわ」
 女はそう合点すると、男のもとへと急いだのだった。

 その夜、男と枕を並べての寝物語に、女は褒めてもらうつもりで、来る途中の出来事を話したが、男は愕然とした。
 以来、この女を避けるようになったという。
あやしい古典文学 No.171