松浦静山『甲子夜話』三篇巻之六十七より

妖魔奔走

 天祥庵に昌信という僧がいて、参拝のおりによく話をする。
 ある日、私が何かの話から、
「出火して大火となれば必ず、天狗が炎の中を走り回って、火の手を広げているそうだが…」
と言うと、
「そのことですよ。こんな話があります」
と、次のように物語った。

「長門侯の家臣が江戸から国に下る際、侯の命で伊勢に参拝し、さらに京都へ赴いて各所を見物してまわったあと、正月十三日の夕方、愛宕山に登りました。ちょうとそのとき、午後四時ごろでしょうか、宮川町一丁目の荒物屋から火が出て、京都じゅうに燃え広がる大火となったのです。
 彼は愛宕山の上から大火のさまを見ていたのですが、火勢が天を焦がし、空一面を雲のごとく覆う炎の上を、この世の者ではない異形の群れが奔走していたそうです。よく見ると、たとえば一つ目の怪物が甲冑を着て馬に乗り、戦場さながらだったと申します。
 この怪事は、彼だけでなく、いっしょにいた従僕にもよく見えたということです。そして、夜明けとともにみな消え失せたのでした」

 異形の群れとは、はたして何者であろうか。
 こういうことがあるのだから、火中を天狗が走って火の手を広げるという話も、根拠のないこととは言えない。また、土佐氏が描いた有名な百鬼夜行図に一つ目の怪物がいるが、あれもでたらめな絵ではない。
 ともかく、奇怪にして不思議なことである。

 京都の大火については、こんな話もある。
 その日の早朝、十二三くらいの小娘が、火盆に真っ赤に熾った炭を盛って、かの荒物屋に入っていった。近所の者はそれを見ていぶかしく思ったが、火元の家人は、まったく知らないことだったという。
 これもまた、妖魔天狗のたぐいであろうか。
あやしい古典文学 No.176