『太平百物語』巻之三「肥前の国にて亀天上せし事」より

昇天@肥前

 肥前の国の大村は、鯨漁がさかんである。十月ごろはとりわけ鯨が多く集まり、漁師たちはもっぱら鯨獲りに明け暮れる。
 その年も、例年のように網を下ろし、小舟を多数漕ぎ連ねて漁にいそしんでいた。

 ある日、いつにまして激しい大波が沖に立つのを見て、
「おお、あれは大鯨だ!」
と、われ先に舟を飛ばし、東西に散り南北に走って、まっ先に銛を打とうと争った。
 ところが、ほどなく海上は、うそのように静まってしまった。
「これは?」
と不思議がっていると、突然、海陸もろとも震動し、雷鳴が天地を揺るがすほどに轟いた。
 そのさなか、身の丈十メートルほどのなんとも物凄い怪物が、海面に出現したのである。
 人々は恐れ叫ぶひまもなく、懸命に舟をこいで逃げまどった。

 怪物は上陸して、正面の山に駆け登ったようだ。
 天から厚い黒雲が垂れてすべてを覆いつくし、その雲を分けて猛烈な稲光が走る。豪雨の中に数知れず雷鳴が轟く。人々はただ念仏を唱えておののくばかりだった。
 やがて空が晴れ、雲が消えて、雷鳴も止んだ。海も静かになっている。人々は生き返った気がしたが、ともかく、その日の漁は中止にした。
 後に聞くところでは、年月を経た亀が、形を変じて天に昇ったのであろう、ということである。

 ある人は、このように説明した。
「年月を経た亀が天に昇ろうとすると、さまざまの虫やら魚やらがその亀に取りついて、いっしょに昇ろうとする。それに妨げられて、昇天に失敗することがあるのだ。それゆえに、みずから凄まじい気配をつくりだして他の魚類を恐れさせ、そのすきに昇天するのだ」
 そういうことがあるのだろうか。真偽のほどはわからない。
あやしい古典文学 No.181