井原西鶴『西鶴名残の友』巻三「人にすぐれての早道」より

吉野山

 山に隠棲する身でも、松風の音が耳ざわりなときがある。
 昔、吉野の奥で連歌が催されたことがあったが、草庵の近くの滝の音がうるさく感じられたので、庵の主人がひそかに萩柴を滝壺に投げ込んだ。川音が絶えて一座の心も落ち着き、じつに気のきいた処置だったといえる。
 その後、草庵は住む人がいなくなって荒れ果てた。軒は落葉に埋もれ、門にはさまざまな蔓草が巻きつき、麓へ通じる道も消え、道しるべの木の枝は鳥の止まりどころとなっていた。

 ところが最近、その庵に、都の人だという尼が住むようになった。
 尼は、二十に満たないような年ごろで、育ちのよさそうな人であった。どういう身の上なのだろうか、とりわけ書などはみごとな筆跡である。また、散った桜の花びらを拾って桜色紙を作って古歌や自作の歌を書き、心を慰めている。これこそ山住まいの徳といえるのではあるまいか。

 あるとき、俳人の今井正盛、法隆寺の僧の哥慶など四五人が山和巡りのついでに吉野山に入り、この尼のことを耳にして、はるばる訪ねていった。
 日の暮れかかるまで歌道の話をした後、
「このような所にお住まいになる方には見えません。どういうわけで出家なさったのですか」
と訊いてみたところ、ふと尼は涙をこぼし、麻の衣を顔に当てた。

「お客様のお尋ねゆえ、お話しいたしましょう。
 私は北国の生まれで、父はその国の大名のおそばに仕えておりました。ある祝典で能が催されたときのこと、太夫が翁の面を忘れて式三番が演じられず、困ったことになりました。太夫の家まで城から六七里もありましたが、父は城を駆け出して、わずかの間に面を取ってきたので、太夫は無事に御前を勤めることができたのだそうです。
 ところがその後、『鳥でもあんなに早く行って来られはしない』と人々の噂になり、怪しまれて御前の勤めも少なくなってしまいました。さらに『狐の化身ではないか』と言われるようになって、家中のつきあいも絶えたのです。
 やがて母も父を疑うようになって、ついには父を刺し殺して自害しました。
 まことに、父は狐だったのでございます。
 それは私が十三のときで、物心もついておりますから悲しさかぎりなく、この世に生きる甲斐もなく思ったのですが、せめて親の亡きあとを弔おうと、この姿になったのです」

 信じられないような話であった。
 しかし、尼が物語るにつれて、庭に何頭もの狐が現れて、尼を慰めるかのように見守ったのである。
あやしい古典文学 No.195