橘南谿『西遊記』巻之一「牛の生皮」より

牛の生皮

 鹿児島に旅したときのこと、当地に珍しい罪人がいた。

 鹿児島の町から遠い田舎の百姓の某という者で、欲が深くて愚かであった。
 誰に聞いたのか、牛の生皮は高い値がつくというので、親しい友達一人とともに、いきた牛の皮を剥ぎ取った。牛が苦しんで鳴くさまは、たとえようもなく悲惨であった。
 そして、剥いだ皮を売ろうとしたけれども、とりたてて何の役に立つものでもないから、誰も買ってくれない。それどころか、村役人が彼らの所業を知り、その心根を憎んで城下に訴え出た。
 城主もたいそう不快に思って、二人を捕らえて牢に入れ、ついに処刑となった。政治の思いやりが禽獣にまで及んだというべきか。

 世間の人が「生」の字義を誤解して以来、狐、狸、犬、鼠、ひどい場合には人間まで、いき胆を取るなどということが行われて、それが無類の妙薬のようにもてはやされるようになった。気の強い悪人が、禽獣の腹をいきながら裂き破り、その苦痛を哀れまずに胆をとって喜ぶ。愚かというべきか、情けないというべきか。
 近江の中江藤樹先生の考察がある。
 「生胆」の「生」は、生鯛とか生栗などの「生」と同じで、つまり干からびていないのを「生」という。「生栗」と書いたからといって、栗の実のいきたのがあるわけではない。「生」は「なま」とよむべきである、と。
 いきたのをいうには「活」の字を書くのだ。医学書などでも、蟾酥(せんそ)つまりガマの油を取るのは「活蟾(かっせん)」と書く。
 かの罪人に、先立ってこのことを聞かせていれば、あのような災いは引き起こさなかっただろうに。
あやしい古典文学 No.198