松浦静山『甲子夜話』巻之十より

柳原土手の決闘

 近年のことらしい。

 江戸市中、柳原の土手で、修験者と侍が口論し、しだいに激して喧嘩になった。
 あたりの人が集まってきた。その人垣のなかで修験者が言うには、
「おまえは武士だが、私には仏の加護の力がある。この力を用いれば、おまえは刀を抜くこともできないのだ」
 武士は憤然として言った。
「そう言うならば、その力で祈ってみるがよい。即刻たたき斬ってみせよう」
 修験者は、心得たとばかりに印を結び、呪文を唱えた。武士は猛然と刀の柄に手をかけ、抜こうとするが、抜けない。
 見物人はいよいよ増えて、もう黒山の人だかり。土手に軒を連ねる店々の商人も皆やって来た。
 そうする中、武士は怒り狂って、気合を入れては刀を抜こうとするが、刃が鞘を出ること三寸あまりのところで、修験者が祈るとまた鞘の中に戻ってしまう。そんなことが繰り返されるばかりだった。
 武士はどうしても刀を抜くことができない。ついに恥をさらしたまま、人ごみにまぎれ込んで立ち去った。見物人は大笑いしながら散っていった。

 土手の商人たちが店に戻ってみると、品物が多数なくなっていた。
 先ほどの喧嘩は盗人のはかりごとで、商人が見物に出た留守に、仲間が店の品を盗んだのである。
あやしい古典文学 No.208