『梅翁随筆』巻之二「仕事師の女房密夫の事」より

弁当ばこ殺人事件

 神田に鳶(とび)の親方がいた。職人たちはこの親方のところに集まって、いっしょに仕事に出るのである。
 ある日のこと、いざ出かけようというとき、職人の一人が、弁当箱がないと言いだした。
「だれか隠したんだろう」
と尋ねても見つからない。
 その職人は面白くなかったけれども、相手がわからなければどうしようもない。一人で腹を立てていた。

 結局、職人は、今日は仕事は休もうと決めて、近所の酒屋に入って酒を飲んだ。
 傍らに弁当を食べている男がいた。ふと見ると、まぎれもない自分の弁当箱ではないか。そこで男を追及したところ、
「親に勘当されて頼るものもなく、昨日から何も食べていませんでした。偶然この弁当を拾ったので、こうして食べているのです」
などと言う。
 聞けば可哀想な話だ。今さら喰い残しの飯を自分が食べることもないと、すべてその者に与えた。

 そのうち、用事を思い出したのでわが家に帰ると、戸が締め切ってあって、まるで留守のようだ。
 無理に押し開けて入ると、女房は情夫を引き入れていちゃついていた。夫が帰ったのを見て、慌てふためいている。
 思いがけない光景に、職人はかっとなった。
「この不義者め、逃がさんぞ!」
と大声でわめいたから、近所の者がおおぜい駆けつけた。

 わいわい言っているところへ、さいぜんの酒屋から、使いが職人を呼びに来た。
「えらいことです。すぐ来てください」
「この忙しいのに何の用だ」
「さっき弁当を喰っていた男が頓死しました。いま役所に届け出るところなんです。あなたは弁当の持主だから、いっしょに行って供述してもらわないと」
 こっちでは密夫を捕らえて大騒ぎしているところに、あっちからは死人が出たと呼びに来る。町内は大変な騒動となった。

 女房の不義の件は、とにかく不届きなことであるから、訴えを起こし、密夫は牢に入れられた。
 頓死のほうは、女房と情夫がたくらんで、弁当に毒を入れたのだろうか。あるいは、あまりに餓えたところで急にものを食ったせいなのか。よくわからない。
あやしい古典文学 No.235