松浦静山『甲子夜話』巻之五十一より

農夫の妻が人を食う

 安房の国の農夫の妻が鬼になって、夫を喰い殺して出奔した。
 海を渡って相模の国、鎌倉の光明寺付近に現れたので、周辺は大恐慌をきたした。

 墓地に赴いた鬼は、墓をあばいて死者を三人喰らい、そこから雪の下方面に駆けてゆく。大蔵、大町、小町、荏柄(えがら)、二階堂、宅間、小袋谷、建長寺前の十二坊も残らず門戸を閉ざし、太鼓を叩くわ鐘を鳴らすわ、拍子木の音響き渡って、いまにも鬼は由比ヶ浜にいたるかと、騒ぎ恐れること並たいていではない。
 だれ一人退治に出る者などおらぬまま、夕方から夜を過ごして暁となり、鬼はどこへ行ったのだろう、行方はまるで知れなくなった。

 これは七月初旬に、富士山に参詣する者が、当地において聞いた話である。
あやしい古典文学 No.270