松浦静山『甲子夜話』巻之四十三より

食い逃げ侍

 小人目付を勤める某が、酔っぱらって帰る道すがら、屋台の蕎麦屋で蕎麦を食った。代金を払おうと懐中を探ると、なんと銭がない。そこで、
「まことに申し訳ない。見てのとおり、どういうわけか銭がない。しかし、食い逃げをするつもりはまったくないのだ。後日に必ず払うので、今夜は勘弁してほしい」
と詫びたところ、蕎麦屋も、
「おっしゃるようにいたしましょう」
と応えて、ひとまずその場は済んだ。

 ところが、近くの道端に寝ていた乞食が聞きつけて、蕎麦屋に向かってこう言った。
「今の侍の話は信用できない。あれほどの身なりをして銭がないなんて。金の一歩くらい持っていて当然だ。それなのに言い分を聞き入れて代金をとらないのなら、わしのように食うに事欠く者には、なんでタダで食わさないのか」
 蕎麦屋が、
「なるほど、それもそうだな」
と言ったので、勢いづいた乞食は起き上がって、
「食い逃げ野郎、食い逃げ野郎」
と叫びながら某のあとを追いかけ、追いつくと抱きついた。

 無礼者め、と怒った某が刀を抜くと、乞食はすたこら逃げだした。
 ちょうどそこへ盗賊改めが通りかかって、刀を振りかざした某を組み止めて投げ倒した。そのとき刀が飛び、同心の足に当たって負傷したが、同心も家来たちも打ち寄って、某を縛り上げたのである。
 この事件の評判、いいの悪いのと色々言われているようだ。
あやしい古典文学 No.278