只野真葛『むかしばなし』より

辻堂の話

 生田流の琴の名手の藤上という盲人は、越後から来た人である。
 その昔、妻と五歳の息子を連れて、江戸をめざして上る旅の途中、行き暮れて辻堂で泊まったおり、夜中に狼が二頭来て、妻と息子を喰ったのだという。
 妻が恐怖で泣き叫ぶ声のふびんさ、悲しさ、息絶えて後、狼がひしひしと骨をひしぎ食らう音の物凄さ、無惨さ、とても聞くにしのびず、まさに断腸の思いながら、盲目ゆえに助けるすべもなく、懐剣を抜いて構えたまま、少しも動かず座っていたところ、狼は藤上に手出ししなかった。盲目ゆえに、かえって命が助かったものらしい。

 夜の明けるのを待って、土地の人々を頼み、妻子の供養・回向をあるかぎりすると、涙ながらにただ一人、江戸に向かった。
 江戸で修業を重ねて、やがて天下に名を知られるようになったが、琴の弟子を集めては、幾度も幾度も辻堂の物語をして、
「人はこれほど酷い目に遭うものなのか。妻子の悲しむ声、骨を噛みひしぐ音など、耳に残って忘れる時はない」
と言うのだという。
 その心中、思いやられるばかりである。
あやしい古典文学 No.279