神谷養勇軒『新著聞集』第七「虎愚夫童を誑して疵を被る」より

獄門首が飯を食う

 豊臣秀頼の時代、大坂の町に獄門首が多数かかったときのことである。伊藤丹後守が年若い者たちを試そうとして、
「だれか、あの獄門場に行く勇気のある者はおらんか」
と言うと、十二歳になる茶坊主が、
「腰刀をいただけるなら、私が行きましょう」
と進み出た。

 渡された刀を腰に帯びて、少年は獄門場へ行き、証拠にするため、首ごとに飯を口に押し込んでいったところ、一つの首がそれをもしゃもしゃと食った。
 少年は少しも騒がず、そのまま行こうとしたが、例の首が、
「もっと食わせろ」
と言う。
「おお、食わせてやる」
と応えると同時に、眉間を抜き打ちにした。

 帰ってきた少年が、
「何事もなかったか」
と尋ねられ、こんなことがありました、と話すと、丹後守は動転した。
 じつは少年を行かせたあと、『年端も行かない者だから無分別に出かけたが、きっと怖がるだろう』と心配して、年かさの者に、
「連れて帰ってやれ」
と言い含めて、先回りさせたのである。
 ところが年かさの者はおとなげなく、自分の首を獄門台にのせて脅かそうとした。案に相違して眉間に切りつけられ、傷をうけたばかりか、世間の物笑いになったのである。

 かの少年は、安芸の刀鍛冶 冬広の子であった。
 大坂の陣の後、冬広が行方を捜したが、ついにわからずじまいだった。きっと討死したのだろうという話である。
あやしい古典文学 No.282