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佐藤成裕『中陵漫録』巻之十一「古壺の奇事」より |
古壺の奇事 |
豊後のなんとかという村に、いたって粗末な古い神社がある。社の中には、壺が一つあるきりで、ほかには何もない。 いつのころからか、この社に乞食が住みついて、時々村に現れては食べ物を乞うようになった。 ある日、村長は、この乞食が社の壺に酒を買っているのを見た。聞けば、村人たちも見かけたことがあるらしい。 そこで村長は、社に出かけて乞食を叱りつけた。 「罰当たりめが、この壺に酒を買って飲んでいるだろう。そもそも勝手に社に寝泊まりしているのがけしからん。今日限りこの村に住むことは許さん。さっさとよその村に行ってしまえ」 こう言って、乞食を追い出してしまった。 それ以来毎晩、村長も村人たちも夢を見た。夢に社の壺が現れて言うのだった。 「わしはとても悲しいぞ。毎日あいつと酒を入れておもしろい思いをしていたのに、今はよその村へ行ってしまった。わしは連れをなくして、何の楽しみもない。なにとぞ元どおりにしてくれよ」 仕方がないから、また乞食の行方を尋ねて呼び戻し、毎日酒代を与えて酒を買わせ、社に住まわせたそうだ。 また、備中松山に東毎字というところがある。ここに辻堂があって、中にずいぶん古い壺がある。 その壺に手をつける人はいない。あるとき犬が壺に首を突っ込み、なんとしても首を抜くことができなかったというのである。 また、同じく備中の宇漢という村でも古壺が出る。 私が思うに、これらはみな昔の骨壺である。 今の茶道を好む者は、壺の口をわざと水差しの形にしたりしている。それは骨壺に多くある形である。また、西洋の諸国の便器もそうである。 元のことを知らずに末を愛玩するのも、それはそれでよい。しかし元を知ることがあれば、末の姿を避けるのもまたよしとすべきである。 |
あやしい古典文学 No.285 |
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