平尾魯遷『谷の響』二之巻「怪虫」より

虫吐く人々

 文政年間のある年、わが親戚の田中傳之丞という人の子で一太郎という少年は、当時十二歳であったが、尻に腫物ができてひどく痛み、食も絶えるばかりであった。
 そうして十日あまり、腫物の口から白い虫が二匹出てきた。一匹は長さ十センチほど、もう一匹はやや短く、ともに出てまもなく死んだ。
 また、この少年はもともと病身で、よく虫を吐き出すことがあり、ある日、長さ二十五センチほどの虫を一匹吐き出した。目も口もないので頭か尾か分からないけれども、一方の端の十センチばかりは二股に分かれていて、いたって活発に動いた。
 私はこの時九歳の子供だったから、この虫を格好の弄び物と思い、細い柴の枝であちこちつついたところ、激しく身をくねり曲げて、いかにも怒っているかのようであった。虫の色は薄茶色だったと覚えている。
 父親の傳之丞もこの虫を珍しいものと思い、乾かして保存した。その後どうなったのかは知らない。

 知人の外崎某の話によると、安政二年の三月、彼の娘が何度となく「腹が痛い」と言っていたが、ある日、一匹の虫が下った。
 長さ十センチばかり、太い針ほどの体ながら、尾にも頭にも襞があって、腹の両側に微細な脚が隙間なくびっしりと連なり、色は薄茶であった。
 たいそう猛々しい虫で、ちょっとでも触ると狂い回り、怒った蛇の様相であったが、日なたに放ったところたちまち死んでしまった。
 珍しい虫もあるものだと、外崎某は語った。

 紺屋町新割に住む三上某という人の妻は、三十四五のころから病身となり、慢性的に腹具合が悪かった。時々むせこんで虫を吐くことがあった。
 ある日、私の家に来て何か用事をしているうち、ふと「虫がつかえる」と言って縁先に出たとみるや、「あっ!」という声とともに、ひと塊の虫を吐き出した。
 虫の塊は地面に落ちるとほぐれて、その数大小あわせて十六七匹と思われた。それぞれ辺りを蠢きあるく中に一匹、ケラ虫の形をして薄茶色の三センチあまりのものは、四足をそなえていた。
 この虫はきわめて猛々しく、他の虫がみな死んだ後も、ひとり二時間ほど蠢いていたが、家の下僕が「こいつは珍しい」と、たらいにぬるま湯を汲み、その中に入れたところ、元気を取り戻して活発に這い歩いた。下僕が今度は冷水を注ぐと、だんだん弱ってついに死んだ。
 以来、この女性は毎日虫の塊を吐くようになり、一年後に亡くなった。吐いた虫の数は万単位だと、その夫は語ったという。これも文政年間のことで、私が十二三歳の時である。

 ある寺の住職は慢性の消化不良に悩んで、つねに胃液を吐いていた。それがだんだん重くなって、後にはケラ虫のような三センチあまりの毛の生えた虫を、五六匹あるいは十匹以上も胃液とともに吐くようになった。
 ついに癒えずに亡くなったという。
 「腹の寄生虫に毛が生えるはずはない。看病の人が病人を慰めようと、医師と謀った作り事だろう」と言う人もある。どうか分からないけれど、奇病ということになると、毛のある虫がいないとも言い切れない。

 工藤某という人は、晩年になって何となく胸の痛みに悩むようになった。痛みは日数を経るに従ってますます強くなり、しまいには胸の骨を囓られるようだった。また実際、その噛む音が体外に聞こえるまでになって、その苦しさは言いようがない。薬などいっこうに効かなかった。
 ところがある日、強い吐き気をもよおして液体を吐き出すと、その中に三センチあまりの蝉にひとしい虫がいた。虫は激しく跳ね回ったが、三十分ほどで死んだ。
 そして、この人の胸の痛みは嘘のように癒えて、まったく本復した。
 かの虫は、「世にも珍しい虫だから」と、厚い紙の袋に入れて陰干しにし、時々人に見せて話の種にした。
 こうして三十日あまり過ぎ、例の虫を見たいという人がいたので袋を開くと、封はそのままだったのに、虫はどこへ消えたのか、脚の一つも残っていない。怪しいことだとは思ったが、元来が剛毅な人だったので、さして気にかけなかった。
 それから五六日後、また以前と同じく胸が痛み、昼夜苦しむようになった。さまざまな薬も効果なく、療治の手だても尽き、やがて亡くなった。
 この怪しい虫は、何だったのか。封は元のまま破れもせずに消えていたというが、またこの人の胸に入ったのだろうかと、人々は不審がった。
あやしい古典文学 No.299