厚誉春鶯『本朝怪談故事』巻第四「鼠禿倉」より

頼豪鼠

 比叡山に「鼠のほこら」というものがある。

 その昔、七十二代天皇であった白河院は、中宮に御子がなかったため、三井寺の頼豪に、
「中宮がもし子を産んだなら、願いを何なりと聞きとどけよう」
との約束で祈祷を依頼した。
 頼豪は寺に帰って一心不乱に祈願し、その力あってか中宮は懐妊した。時に承保元年十二月十六日、白河院は大喜びで、急ぎ頼豪を呼んで望むところを訊くと、
「三井寺に戒壇を建てるべく、勅許をいただきたい」
とのことだった。
 白河院は、頼豪が僧の官位を望むだろうというつもりで約束したのだった。戒壇建立を望むとは全く予想外であり、それは容易ならない大事であった。
 考えるまでもなく、当時唯一戒壇を許されていた延暦寺が黙っていないだろう。そこを強行すれば、延暦寺と三井寺の争いとなって、ひいては天下の一大事となるだろう。それゆえ白河院は、頼豪の願いをかなえることはできないと伝えた。
 頼豪は大いに恨んで寺に帰ると、
「食を断って死に、帝にこの恨みを申し上げる」
と言い放った。
 白河院は驚いて、頼豪をなだめようと、大江匡房を三井寺に遣わした。匡房は頼豪に面会を求めたが、頼豪の怒りは甚だしく、
「天子に戯言があってはならない。わが望みを許さぬなら、私が祈って生まれた皇子の命を取り、ともに魔界に赴くことで、この恨みを報じよう」
と、匡房に対面することなく死んだ。

 その後、白河院の夢に白髪の老僧があらわれ、異様な形相で皇子の枕元に立った。以来皇子は病みつき、ついに承暦元年八月六日に亡くなった。
 頼豪の恨みはまだ晴れなかった。大鼠となって比叡山に登ると、延暦寺の仏像・経典を片端から食い破った。
 そこで詔勅によって祠を建て、頼豪の霊をまつることになった。

 その祠を、今の世の人は「叡山の鼠のほこら」と呼んでいるのである。
 このことは道春の『神社考』に載っている。
あやしい古典文学 No.312