根岸鎮衛『耳袋』巻の九「猫忠死の事」より

忠臣猫

 安永から天明にかけてのころの話である。
 大阪の農人橋に河内屋惣兵衛という町人の家があった。美人の一人娘がいて、両親はこれを溺愛していた。

 惣兵衛のところでは永年一匹のぶち猫を飼ってきたが、その猫が娘に付きまとって片時も離れないようになった。まさに常住坐臥、便所に行くのにも付きまとったから、やがて『あの娘は猫に魅入られている』との噂が立ち、縁談も断られる始末だった。
 憂慮した両親は、ぶち猫を随分な遠方に連れて行って捨てたが、猫は間もなく立ち帰ってきた。
「猫は怖いもんやな。親の代からおる猫とはいえ、こうなったら打ち殺すしかないで」
 こんな相談をしていたところ、いち早く感づいたのか、猫は行方知れずになった。
 そこで『やっぱりただの猫ではなかった』と、家じゅうで祈祷を受け、魔除け札などを貰って貼ると、油断おこたりのないようにして暮らした。

 ある夜、惣兵衛は夢を見た。
 かのぶち猫が枕元に来て蹲っているので、
「おまえ、逃げたんやなかったんか。なんでまた来たんや」
と尋ねると、猫はこんなことを言った。
「わいが嬢さんに魅入っとるとかで、殺そうとするから、とりあえず隠れたんやがな。そやけど考えてもみ、わいはこの家に先代から飼われて四十年、その大恩があって、なんで主人に仇せなならんのや。嬢さんのそばを離れんかったのは、ほかでもない。この家には年経た妖鼠がおる。そいつが嬢さんに魅入ろうとするんで、近づかんように守っとったんや。
 まあ勿論、鼠をやっつけるのは猫の当たり前の仕事なんやが、あの鼠はわけがちがう。そこらの猫が束になってかかってもかなう相手やない。わいにしても、一匹の力では勝てそうにないんや。で、どうしたもんかと考えるに、島の内の河内屋市兵衛方に一匹の虎猫がおる。強い猫や。あいつと組んだら何とかなると思う」
 言い終わると、猫の姿はかき消えた。

 翌朝妻と話すと、妻も同じ夢を見たという。不思議なことだとは思いながら、『夢なんかを真に受けるべきではない』として、その日は暮れた。
 しかし、その夜また猫が来て、
「信用してんか。あの猫さえ借りてきてくれたら、きっとあの鼠を退治したるよって」
と言う夢を見た。
 そこでついに島の内まで出かけて、料理屋風の市兵衛の店に立ち寄ってみると、なるほど庭に沿った縁側に見事な虎猫が寝そべっていた。
 主人に会って委細を語ると、市兵衛は、
「あの猫は長いこと飼っていますが、おっしゃるような逸物かどうか、……」
と首を傾げたが、そこを頼み込んで貸してもらうことにした。
 翌日受け取りにいくと、すでに猫仲間を通じてぶち猫から頼まれていたらしく、虎猫は素直についてきた。
 惣兵衛方で虎猫にご馳走していると、ぶち猫もどこからか帰ってきて、身を寄せて何やら相談する様子は、人間の友達同士が話しているかのようだった。

 さて、その夜また主人夫婦は夢を見た。
「あさっての晩、決着つけたる。日が暮れたら、わいらを二階に上げてんか」
とぶち猫は言った。
 翌々日、二匹の猫に十分ご馳走した後、夜になって二階に上げておいた。
 夜十時ごろであろうか、二階で凄まじい物音が起こった。しばらくは家ごと震動する騒ぎが続いたが、十二時ごろにやっとおさまった。
 「おまえ行け」「いや、あんたこそ」と言い合ったあげく、主人を先頭に二階へ上がってみると、猫よりでかい大鼠の喉ぶえにぶち猫が食いつき、しかし鼠に頭蓋を噛み砕かれて、ともに死んでいた。
 島の内の虎猫は鼠の背に取りついたまま、精根尽き果て瀕死の状態だったが、いろいろ療治して助かった。そこで、厚く礼を述べて市兵衛方に返した。

 ぶち猫は、主人一家がその忠義の心に感じて一基の墓を築き、手厚く葬ったという。
あやしい古典文学 No.313