朝日重章『鸚鵡籠中記』正徳二年十一月より

為朝の神像

 八丈島は太古からこのかた、疱瘡(ほうそう)も麻疹(はしか)もない。ゆえに、子供のまじないに八丈島の織物を着せるともいう。
 昔、源為朝がこの島に流されて悪鬼を退治し、永く島の守護神になろうと、自分の像を楠で造って残した。
 その像を島の氏神として崇拝し、八丈島のみならず他の島々の者も尊んで、洪水や干魃といった災害であれ疫病であれ、祈れば必ず効験があった。

 どういういきさつからか、代々の将軍が毎年五月、かの為朝の像に鉄の鎧を寄進される。古い鎧の鉄は、神主が島の者に分け、鉈や鎌に鍛えなおす。
 この五月も、文昭院殿(六代将軍家宣)が例年通り寄進なさるということで、鎧の寸法を島へ問い合わせた。ところが、どう話が食い違ったのか、島のほうでは神像を江戸に持参せよという命令だと受け止め、神主父子二名に島の者七十人が付き添い、江戸に持参して役所に申し出た。
 このことは将軍の耳に入って、行き違いに機嫌を損じられたらしいが、それにしても遠路はるばる持参の名像だからと、江戸城に取り寄せてご覧になった。楠で丈二メートル半に及び、面相の凄まじさは見る人を恐怖させた。

 命により、この像を江戸城に留め、吹上御殿の庭の松山の一角に社を建てて安置されることになり、神主親子と島の者は帰ってよいということで、帰途についた。
 帰りの船の中で神主父子がにわかに疱瘡の高熱を発し、そのまま船中で死んだ。残る七十人もみな疱瘡で高熱に苦しみ、島に帰るとすぐ皆死んだ。
 それから島じゅうことごとく疱瘡を患い、十日のうちに四百人あまりが死に、さらに軒並み数千人が死んだ。
 発熱しながらもまだ死んでいない者は他の島に逃げてゆき、もう島は人間が絶滅しようというありさまであると、その惨状、江戸の奉行所に訴えがあった。

 以上のような風説があるが、まるで根も葉もないホラ話である。
あやしい古典文学 No.334