和田烏江『異説まちまち』巻之三より

妖気家に入る

 佐藤五郎左衛門直方が語ったという。

 上州厩橋に、山に行って猪や鹿などを獲るのを大の楽しみとしている侍がいた。
 殺生道楽が日に日に嵩じて、もう三年来、家にゆっくり居る日がなく、毎日山に行っていた。山中に鹿小屋をたてて、夜も狩をするのである。

 あるとき、常に連れている草履取りの従者と、鹿小屋で鹿が通るのを待っていたが、その夜はまた特に暗く、何ひとつ見えない闇の中で夜半をむかえた。
 侍が、
「今夜は獲物がありそうもない。どういうわけか、ひどく心細く思う夜だ。今夜は手ぶらで帰ろうではないか」
と語りかけると、従者も、
「ずいぶん寂しい夜です。こんなときは何の獲物もないでしょう。早く帰りましょう」
 そうして帰り支度をしていると、山の奥からざわざわと音がする。
 そちらを見やると、巨大な火の玉が小屋に向かってころがってくるのだ。一面の闇が、今にも二人を呑み込もうとする火の玉の明かりで、虫の這うのも見えるほどに明るくなった。
 主従は心を合わせて火の玉に立ち向かった。侍がとがり矢をつがえて射ると、鉄丸を射たような乾いた音がして、瞬時に火は消え、元の暗闇となった。

 やがて家に帰りついたが、それを見て、家の者どもはずいぶん慌てた様子であった。まともに受け答えもしないので怒って叱りつけると、
「お母さまが怪我をなさいました」
とおろおろ声で言う。
 母の部屋に行ってみると、屏風をたてて、そのむこうで呻いている。かたわらに山で射たとがり矢が立てかけてあった。まだ血がしたたっている。
 侍は従者と目くばせをして、屏風を押し倒し、二人で上から押さえつけると、しばらくは呻き声がしていたが、やがて静かになった。屏風をのけて見ると、寝間着ばかりで、ほかに何もない。
 そればかりか、家じゅう森閑として、家人の姿は一人もなかった。

 奇怪な話である。
 直方はこの話を評して、次のように述べた。
「殺生に夢中になって山にばかり心が行っていた隙に、山中の妖気が家に入り込んだのだ。家の者は皆とっくに殺されて、化け物と入れかわっていた。そして、いよいよ主人を滅ぼそうとしたのだが、その剛胆さの前に敗れたのだ。」
あやしい古典文学 No.335