鳥飼酔雅『近代百物語』巻四「怨のほむらは尻の火焔」より

尻に遺恨あり

 昔、山城の国宇治の片田舎、鹿飛(ししとび)というところに霊嶽という僧がいた。
 霊嶽は、浮世を離れて山に隠棲し、生死無常を観念して善悪不二を悟り諦めていた。早い話が、餓えれば飯を食って腹をふくらまし、渇けば一杯の水で喉をうるおす。寝たり起きたりに人を気づかう必要もないから、ああ気楽だね、と仏を拝み、衣を脱いで丸い頭を撫で回していたのであった。

 そんな暮らしの、ある春の夜のことだった。
 春の短夜というが、またたくまに九時過ぎとなった。では煙草を一服、眠くなれば寝るばかりと、煙草をキセルに詰めていたところ、表に人が来たようで、すすり泣くような声と編戸を叩く音がする。
 『変だなあ。この庵は昼さえ人の来るのはまれなのに、夜遅くに訪ねる人があるわけもない』と思って火を消し、『おおかた松を吹き渡る風だろうよ』と床に入ったが、編戸を叩く音はしきりにして、
「わたしは遠国の者ですが、道に迷ってここに来てしまいました。道を教えてください」
と、懸命に頼んでいる。
 霊嶽は驚いて、『これはいったい、どんな人だろう』と気になった。『山影門に入りておせども出でず、月光地にしいて払えどもまた生ず』なんてのがあったなと思いつつ、編戸を開けて月の光でよくよく見れば、十五歳に足りない美少年。涙で袖を濡らして泣き沈んでいる顔ときたら、芙蓉に雨をそそぐがごとくである。
 気品のある言葉のはしばしを聞くにつけても、霊嶽は痛ましく思えて、
「あなたはどこの人ですか。どんな事情で、こんな所へ夜中に迷いこんで来たのですか」
と問うと、その心のこもった言葉に、少年は嬉しげな顔を上げ、
「私は備後の者ですが、人買いに誘拐され、難波に連れて来られました。そこで奥州に売り渡され、近々東に下るというのです。陸奥の果てに行き、どんなひどい目にあうのかと思うと恐ろしくてならず、人目をぬすんで逃げ出しました。しかし方角もわからないまま、ここに来てしまったのです。父の名は花垣十内、私は絹太郎といいます。助けてください、お坊さん」
と、袂を顔におしあてるのであった。

 霊嶽はすべてを聞いてかわいそうでたまらず、
「とにかく、こちらへ」
と、庵に伴い、
「しばらくはここに滞留されるがよい。いずれかの機会に故郷に送り帰し、再び父上に対面させてあげよう。安心しなさい」
と、たいそう親身に言って慰めた。
 ところが、絹太郎は手を合わせ、
「思いがけない面倒をおかけする私に、親切なお言葉。この恩は、なにをもってもお返しできないほどです。しかし、武士の子が人買いに誘拐されたのでは、国に帰っても、朋輩ばかりか町人にまで馬鹿にされます。何の面目あって故郷に帰れましょう。どうかご慈悲で、お弟子にしてください」
と、思いつめた表情である。
 霊嶽はものすごく喜んだ。
「それでは近日、わしがあなたの故郷に行き、十内殿に対面して、事情を詳しく語って安心させてきましょう。それまでは従者ということにする。今夜は疲れているだろうから、ゆっくり休みなさい」

 絹太郎は利発な少年であった。二三日暮らすうち、一つを聞いては三つをさとり、霊嶽の心を先読みするほどの知恵をあらわした。霊嶽はたいそうこの少年を愛し、神童とさえ異名した。
 五六日過ぎたある夜、霊嶽は酒を飲んで、十時過ぎに床に臥した。
 絹太郎も添い臥ししていたが、さて、何事があったのだろう、絹太郎が、
「きゃっ!」
と一声大きく叫び、霊嶽の夜着から飛び出した。
 姿を見れば、これはなんと! 幾年を経たともしれない老狸が顔をしかめ、歯をむき出し、床柱に抱きついて、尻を舐め舐め頭を振っている。
 霊嶽を睨み、飛びかかって頭を掻きむしり、窓を引き裂いて、狸は消え失せた。
 霊嶽は、あまりの意外さに、しばらくはただ茫然としていた。頭の疵から流れる血で目がくらんだので、袂から紙を出して拭ったけれども、血はなおもしたたり落ちる。
 力が抜けてふにゃふにゃとなりつつ、腹が立つやらおかしいやら。相手が逃げてしまっては文句を言っても仕方ない。『南無阿弥陀仏』と唱えて横になる。夜着をひっかぶり、頭を抱えて眠ってしまった。
 夜が明けてみれば、座敷も床も血が染みている。それを拭い去って、二三日が過ぎた。

 その夜更け、霊嶽はぐっすり寝入っていた。
 何者かが夜着をそっと引きあげて、毛の生えた手をぐいと差し入れると、尻と睾丸を猛烈に引っ掻いた。
「うゎっ!」
と叫んだ霊嶽が、強盗だと思って起き直ると、尻の痛みはワサビおろしに坐ったようだ。人の気配はどこにもない。
 頭巾を疵に押し当ててこらえてみたが、痛みは激しく、呻きながら夜を明すと、外科医を呼んで治療してもらった。
 その疵がおおかた癒えたある晩、今度は寝入りばなのことだ。
 どこから持ってきたのか、三寸ばかりの松の木の燃えさしの火のついたのを、尻にぬっとさしつけた。
「わあ〜〜〜〜っ××××!!」
 飛び上がって懸命に尻をさすったが、大火傷の痛みは引っ掻かれた傷に十倍した。夜もすがら泣きに泣き明かしたのである。

 霊嶽は、『この先、この地にとどまれば、どんな目に遭うか知れたものではない。隠棲も命あっての話だよ』と、杖にすがってよろめきながら鹿飛の庵を出ていった。
 この僧は狸をいじめたわけではなく、絹太郎に化けていた時もことのほか寵愛したのに、狸が僧を怨んだのは、前世の業因によるのかもしれない。
 それにしても、尻ばかりをつけ狙ったのはどういうわけなんだろう。人々はみな不審がったということだ。
あやしい古典文学 No.363