鈴木桃野『反古のうらがき』巻之一「きす釣」より

キス釣り

 キス釣りは、釣り人の技量の差が大きく出る。釣り道具・釣り竿にいたるまで、なかなか厄介なものだ。近来はことさら難しく考えなくても、ハゼ同様に釣れる豊漁の年もあるが、だいたいにおいて釣りにくい魚といえよう。
 だから、釣り竿のよいのを選んで争って買い、中には一竿の値段が金一歩を超えるものがある。そういう竿を持てば、誰にも負けないほど釣れるというわけだ。だが、そこまでする者はまれで、多くは三四匁くらいの竿で事足れりとする。獲物は当日の日和によって、そこそこあるものだ。

 ある武士が釣り道楽で、道具もかなりのものを用い、一日を釣りに明け暮れた。
 相応の釣果があがっていたので気持ちよく楽しみ、酒など取り出して杯を重ねるとさらに上機嫌となって、品川沖を東へと舟を進めた。
 ふと手応えがあったので竿を上げると、かかっていたのは釣り針と錘との一具で、魚ではない。そのまま徐々に引くと、糸に付いて釣り竿が出てきた。随分よい竿だ。
 よほど高価なものにちがいないと慎重に引き寄せ、竿の元の部分まで引き上げると、竿を固く握りしめた片腕が現れた。
 これにはさすがに興醒めしたが、酒の勢いでぐっとその腕を掴み、掌から強引に竿をもぎ取ると、水死体を突き放して舟を漕ぎ返した。

 見れば見るほどよい竿だ。釣り具合がすばらしい。
 さぞかし高金で求めた竿だったのだろう。何かの過ちで水に溺れながらも、この竿の惜しさに、固く握ったまま死んだのだ。
 『我も人も変わらない。物好きのあまり、命を落とすといえども執着するのだろうなあ』と思われ、武士は念仏を唱えて水死人の冥福を祈った。
 もちろん竿は自分のものにして、以後、この竿を用いて釣りに出たのである。
あやしい古典文学 No.366