平尾魯遷『谷の響』二之巻「大章魚屍を攫ふ」より

屍を攫うもの

 文化三年か四年のことらしい。
 津軽の西海岸の沢辺村の者が、深夜一人で馬に乗って、まどろみながら艫作村の浜を行くとき、不意に馬が脚をとどめて呻る気配に、はっと目を覚ました。見ると、すさまじく大きな蛸が馬の脚に絡みついていた。
 即座に鎌で蛸の足を斬り捨てて逃れたが、この話を村の者にすると、
「なおざりにできないことだ。ほうっておけば人をも襲うかもしれない」
と、浜辺を見張ることになった。

 五六日の後、艫作村で旅の修行者が病死したので、これを浜の小高いところで火葬にした。すると、火を放って一時間もしないうちに、はるかの沖から、波を巻き上げ猛然と岸に迫り来るものがあった。
 あれこそ、かの大蛸にちがいない。
 ただちに村中に触れて波のあとに船を漕ぎ寄せ、大網を張って退路を断つとともに、陸でも皆が待ち伏せた。
 蛸は火葬の火めがけ真一文字に浜に揺り上がると、海水をかけて火を消し、死人を掴んで引き返そうとした。
 そのとき村の者どもが躍り出て、鉈や鎌で蛸をずたずたにして殺した。

 それはなんとも巨大な蛸で、頭の直径は二メートルに近く、足の周囲もそれぞれ一メートル半を超え、体長はおよそ六メートルあった。
 頭を切り開くと、人の髑髏五個、馬の肋骨一個、骨肉・臓腑・毛髪の類がいかにも生々しく、いまだ血にまみれた有様で、誰しもむごたらしさに目を背けた。
 それらをすべて集めて俵に入れ、五俵あまりもあったのを土中に埋め、また蛸の死骸もその傍らに埋めて、僧を請じて回向した。名づけて蛸塚。

 また、その際に村の老人の一人が、
「世の中にこんな大蛸がまたといるものではない。是非とも人に見せ、世間に知らせたいものだ」
と、吸盤一つを取って、鰺ヶ沢の岡部文吉という人に贈った。
 吸盤は櫃に盛ると縁からはみ出す大きさで、見る人はみな驚嘆した。吸盤の内側を開くと、ごく短い剃毛のようなものがたくさんあった。
 これは、伊勢屋善蔵という人が鰺ヶ沢で直接見たと語ったことである。



 同じような話を、安政四年四月に、医師吉村氏宅で小野某が語った。
 それによれば二十年ばかり以前、越後の国でたいそう大きな蛸を捕獲したことがあったらしい。いきさつというのは、こうだ。

 越後の某村の海岸の斜面に火葬場があった。
 あるとき土地の者が死んだので火葬に付し、翌日、親族が遺骨を拾いに行ったところ、そこには一片の骨もなく、あたりはまるで箒で掃いたようになっていた。大変不審な出来事だったが、どうしようもないので、それきりになってしまった。
 また二十日ほどして死人を火葬にすることがあった。そして、またもや翌日には骨のかけらもなくなっていた。
 こういうことが続いては、さすがに捨て置くこともできない。村じゅう寄り合って評議するに、ある老人が言うには、
「蛸の年を経たのは、陸に上がって牛馬や人をとって食うというぞ。今度のことも、そんな蛸の仕業ではあるまいか」
 そうかもしれない、よし、試してみようと、その日のうちに火葬場に空火(からび)をたき、数十人の村人が山かげに隠れてうかがった。

 やがて午後五時ごろ、はるかの沖から波を蹴立てて来るものがある。間近になってみると、はたして巨大な蛸であった。
 皆々示し合わせて用意しているところに、蛸は威勢よく上陸してきた。火をうち消して屍を取ろうとするが、何もない。
 頭をもたげて周囲を見回し、やっぱり何もないので帰ろうとした。ところが、村の者が帰り道に糠をまき散らしておいたので、それが蛸の吸盤にひっついて進退極まった。苦しむところを一斉に襲いかかってさんざんに斬殺した。
 蛸の肉は、村人で残らず喰らい尽くした。

 この蛸の足の周囲は一メートルあまり。他の寸法は聞かなかったという。
 先の話とこれはたいそう似ているが、世の中には同じような出来事があるもので、さして疑うべきではないだろう。
あやしい古典文学 No.391