朝日重章『鸚鵡籠中記』宝永五年三月より

捨子

 禅寺町下、河村丹左衛門の手代屋敷の敷地内で、五六歳くらいの男の子が死んでいた。
 鼠色の木綿袷の着物にさなだ打ちの帯をして、さかやきは昨日剃り、爪も昨日切った様子であった。水に落ちて死んでいたのを誰かが引き上げて、そのまま放置したものらしい。
 この子は、中橋裏の人足 権助の子である。権助は久しく黄疸を煩い、飢え死にしかねないほど生活が窮まったため、しかたなく子供を禅寺町辺りに捨てたのであった。
 子供は昨日、そこらを泣きながら歩いていたが、大雨の水がたまった堀に落ちて死んだのだろうか、などと噂した。

 事件は二十二日に町奉行に渡り、町方が一戸ずつ判をとって取り調べを行った。
 権助の女房はこれを聞いて、大変なことになったと思いつめたか、翌二十三日、二歳になる女の子を抱いて、江川に身を投げて死んだ。
あやしい古典文学 No.394