HOME | 古典 MENU |
松浦静山『甲子夜話』巻之二十一より |
裸男 走る |
三河の国吉田の人、林自見の著した『市井雑談集』に、こんな話が載っている。 さる元文二年正月二十三日の朝方五時半ごろ、吉田の町内を髪を振り乱した裸の男がうろついているのが発見された。 番屋の者が近づいて何者かと問うた。返事をしないので、番人は『きっと囚人が牢を抜けて出たのにちがいない』と思って、大声で近所の者を呼んだ。 そのとき私も出たのだが、男はもはや竜招寺の門前へ行ったのだという。それで五六人で追いかけると、後ろ姿はちらっと見えたものの、犬のごとく敏捷に疾走して、ついに行方を見失った。町内に戻ると、東の空はすでに白んでいた。 その日、新居宿から従弟が来て、これも例の者を見た話をした。 今朝、橋本の西の大倉戸で、乱髪の裸男がいるのが見つかり、村人が集まってどこから来たのかを問うたが、まったく言語は通じなかった。食べ物を与えてもすべて食べず、そこの沼のススキの穂の枯れたのを採って少し食うと、山のほうへ逃げた。皆で追いかけたが、その足の速さはあたかも飛ぶ鳥のごとく、まるでついて行けなかった。 足跡をたどって鷲津村に至ると、そこの村人が大勢、浜名湖岸に集まっていた。 村人たちによれば、先刻あやしい者が来て村じゅう大騒ぎになり、捕らえようとすると湖に入って見えなくなった。しばらくしてまた湖上に浮かんだが、見れば魚を捕らえてそのまま食っていた。舟を出して近くまで行くと、また湖に潜って、それからはもう見えないというのだった。 ここ吉田から大倉戸まで、道のりはおよそ十八キロある。大倉戸に至った時刻は午前六時をやや過ぎたころ、鷲津村に至ったのは七時より前だろうという。吉田から鷲津までは二十二キロほどあるのに、わずか一時間あまりで行ったと考えられる。まったく類を見ない速足である。 その後、この怪人の行方を語る者はいなかった。どこの国の、あるいはどんな島の人なのだろうか。 |
あやしい古典文学 No.398 |
座敷浪人の壺蔵 | あやしい古典の壺 |