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『今昔物語集』巻第二十七「産女、南山科に行き、鬼に値ひて逃ぐる語」より |
山の老婆 |
京の都のあるところに、宮仕えしている若い女がいた。父母も親類もなく、ちょっとした知人もいなかったので、出かけて立ち寄る先もなかった。いつも自分の居室にいて、『もし病気などしたら、どうすればいいだろうか』などと心細く思っていた。 この女には定まった夫もいなかった。しかし、気まぐれに通ってくる男などはいたので、ある時ふと懐妊してしまった。 こうなるといよいよ身の不運が思いやられて、ひとりぼっちで嘆きながら、どこで産んだらいいのかと途方にくれた。相談できる人はおらず、主人に打ち明けることも恥ずかしくて出来なかった。 ただ、この女は気丈で才知ある者だったので、思案の末、『いよいよという時になったら、ただ一人召し使っている少女を連れて、どこなりと深い山のある方へ行こう。山の中で、何かの木の下ででも産もう』と心に決めた。『もし自分がお産で死んでも、山の中なら人に知られずにすむ。死ななかったら、何でもないふりをしてここに戻ってこよう』 産み月が近づくにつれて、心の内は限りなく悲しかったけれども、さりげなく振る舞いつつ、少しずつ準備をした。いささかの食料を用意し、召使いの少女に事情を話しなどするうちに、臨月にいたった。 ある日の暁がた、産気づいたようなので、夜が明ける前にと、少女に荷物を持たせて主人の邸を出た。 『東の方が山に近いかしら』と思って行くと、鴨川のあたりで夜が明けた。『ああ、ここからどっちへ行けばいいの』と不安で泣きたくなったが、それをこらえて、休み休みしながら粟田山の方へ向かい、山深く踏みこんでいった。 適当な場所はないかと探しながら、北山科というところまで行った。見れば、山の斜面に山荘のような家がある。古くて半ば壊れた建物で、人が住んでいる様子はない。『ここでお産して、産まれた赤子は捨てて帰ろう』と思い、どうにか垣根を乗り越えて中に入った。 板敷きが所々に朽ちて残っている離れの間に上がって、しゃがみ込んで休んでいると、奥の方から人が来る足音がした。『どうしよう。人が住んでいたんだわ』 戸が開いて入ってきたのは、白髪の老婆であった。『きっと冷たくあしらわれるだろう』と思っていると、意外にも老婆はやさしく微笑んで、 「このように思いがけずおいでなのは、いったいどなたじゃ」 と尋ねた。 女は泣く泣く、自分の身の上をありのままに語った。すると老婆は、 「それはなんと不憫な。気にすることはない。ここでお産なさるがよい」 と、奥に迎え入れてくれた。 女はただただ嬉しかった。『仏さまが救ってくださったのだ』と思って奥に入ると、粗末な畳などを敷いてくれたので、そこで程なく無事に男の子を出産した。 老婆がやって来て、 「よかったのう。わたしは年寄りだし、こんな片田舎に住む者だから、産後の物忌みなど無用のこと。七日ほどここで休んでから、お帰りなされ」 と言い、召使いの少女に湯を沸かさせて、赤ん坊に産湯をつかわせた。女はその親切がありがたく、また、産まれた子を抱いてみればたいそう可愛くて、もはや捨てることなど思いもよらず、乳を含ませて横になっていた。 こうして二三日が過ぎた。 女が昼寝をしているとき、横に寝ている赤ん坊を老婆がのぞき見て、 「おお、うまそうじゃ。ただ一口に……」 と呟くのを、夢うつつに聞いた。 はっと目覚めて見た老婆の顔は、ぞっとするほど不気味なものだった。『あっ、これは鬼にちがいない。このままいれば、私たちはきっと食われてしまう』 女は何とかして逃げようと、ひそかに機会をうかがった。 そうするうち、老婆が昼寝をして、ぐっすり寝込んでいるときがあったので、そっと赤ん坊を少女に負わせ、自分も身軽に支度して、『仏さま、お助けを』と念じながら、その家を抜け出した。 もと来た道をそのまま、走りに走って逃げていくと、やがて粟田口に着いた。そこから鴨川の方へ向かい、人の家を頼んで衣服など着直し、日暮れになってから主人の邸に戻った。 賢い女だったからこそ、このように行動することが出来たのだ。子は人に預けて、養育してもらったそうだ。 その後、女は老婆がどうなったか知らず、また、人にこんな出来事があったと語ることもしなかったが、ずっと年をとってから、はじめて人に話した。 思うに、そうした古い家には、必ず妖怪が棲んでいる。だから、老婆が赤ん坊を見て「うまそうじゃ。ただ一口に」と言ったからには、確かに鬼であったろう。 こんなことがあるから怪しい所に独りで立ち入ってはならないと、語り伝えているのである。 |
あやしい古典文学 No.405 |
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