『奇異雑談集』巻二「戸津坂本にて、女人僧を逐つて、共に瀬田の橋に身をなげ、大蛇になりし事」より

逃げる僧、追う女

 ある人が雑談のおりに、女が執心によって蛇となったのを我が目で見たといって、こんな話をした。

 曹洞宗を教え説く齢四十あまりの僧が、江州坂本の戸津に来て、ひと夏を安居し、仏法の要義を説いた。
 坂本は比叡山の麓であり、延暦寺の禁制があるから、おおっぴらな説法はできない。小さな庵でこっそりと行ったが、地元の人々が多数聴聞した。
 その中でも歳三十あまりの女が一人、とりわけ熱心に信仰した。毎日の聴聞に二度三度と行き通い、僧の私生活にも入り込んで、やがて男と女の仲になった。
 交情があからさまで目に余るので、人々はこれを醜聞として語った。

 僧は後悔し、どうしたものかと悩んだ。女を遠ざけようとしたが、相手は聞き入れない。やむなく、女が来ない間に当地を逐電しようと決心して、わらじを履き、帯を結んで、庵の門を出た。
 門を出て少し行ったころ、女が庵にやって来た。
「あの方はどこに?」
 下働きの者が、
「たった今、門の方へ行かれました」
と言ったので、女が門を出てあたりを見渡すと、二百メートルほど先を逃げていく僧の後ろ姿が見えた。
 咄嗟に女は、僧を追って駆け出した。懸命に走ったから、藺草の草履はすぐに破れた。裸足になって走った。一重に結んだ帯も切れて落ちた。帷子(かたびら)の裾が風に吹かれて翻った。乱れ絡んだ頭髪が後ろに横に長くなびいた。命を捨てて疾走した。

 走る二人は坂本の町を駆け抜け、琵琶湖の浜にきた。見る人は驚き恐れ、あるいは面白がって追いかけた。
 僧が振り返ると、女がだいぶ差を詰めている。これはいかんと懸命に足を速めて、大津を過ぎ、粟津を過ぎ、松本を過ぎ、瀬田の橋詰めを通過したが、このままでは追いつかれると思ったか、やや引き返して橋を渡りかかった。
 女はなおも近くなった。僧は橋の中ほどから、ざんぶと瀬田川へ飛び込んだ。女もまるで躊躇せず、後から飛んで水に入った。
 瀬田の唐橋は、東西から集まった見物衆で満ち満ちた。そのうちの水練の達人が六人、
「どうなったか、見届けないでいられようか」
と言って、裸になって飛び込んだ。
 水底へ潜って見ると、女は大蛇となって僧に巻きついていた。六人はそれを見て、慌てふためいて浮き上がり、逃げ去ったのだった。
あやしい古典文学 No.409