『片仮名本・因果物語』下の二十一「慳貪者、生きながら餓鬼の報ひを受くる事、付 種々の苦を受くる事」より

あまりな死に方

 江州日野谷の石原村に、道節という金持ちがいた。無類のけちで欲深く、慈悲の心など持ち合わせない者であった。
 道節は七十歳にして生きながら餓鬼となり、大食すること限りなかった。一日に飯を四五升食らいながら、ついにあがき死にした。
 死後六十日目、道節の霊が嫁にとり憑いた。嫁はまる十日間、
「飯が食いたい。飯を食わせろ」
と叫び続けたけれども、いろいろ供養したので、やがて本復することができた。
 道節の兄もまた、飢えの止まらない病に罹って、限りなく大食した。大桶に飯を入れ、昼夜を問わず食いたいだけ食わせたが、百日ほど際限なく食ったあげく死んだ。
 近隣の大塚村で確かに聞いた話である。

 江州の綺田村に、孫右衛門という者がいた。剃髪して西源と名乗った。
 ある夜 大入道が現れて、西源を大いに折檻した。その後も毎夜 縛られて吊され、荒くれ男が火に入れ水に入れ、さんざん責め苛んだ。
 西源はたまらず、便所に隠れるなどしたが、探し出されて責められた。結局、五十日ほどで責め殺されたのであった。
 土地の代官の治右衛門から平右衛門という者が聞いて、語ったことである。

 越前の敦賀に、名の知られた金持ちがいた。ことのほか貪欲な者であった。
 寛永二十年六月の末に難病に罹り、苦痛のあまり眼を皿ほどに大きく剥きながら、金銀を取り出して積ませ、
「この金で療治してくれ。命を助けてくれ」
と言って、さらに苦悶した。
「今日死ぬ。今死ぬ」
と騒いで、十日ほど猛烈にもがき苦しんだ末、恐ろしい有様で死んだ。
 死骸を棺に押し籠めておいたところ、生き返ってそこらを這い回った。打ち叩いても死なないので、やむをえず切り殺した。
 その死骸をどう捨てたのか、知っている者はいない。
あやしい古典文学 No.411