『新御伽婢子』巻一「髑髏言」より

もの言う髑髏

 摂津の丸橋というところに、極めて強欲で非道な男がいた。隣郷の頼母子講に加わっていて、ある時その集まりに出かけていった。

 道の途中に墓場があった。そこを通るとき、着物の裾の後ろに何か重く引っかかるものがあった。ふり向いて見ると、髑髏が一個、裾に食いついているのだった。
 髑髏を足で蹴りはなし、そのまま行こうとすると、そいつは声を出して男を呼び止めた。怪しく思いながら、
「なんの用だ?」
と返事すると、髑髏は言った。
「我はその昔、貴殿に大恩を受けた者である。なんとしても生きているうちに恩に報いようと思いながら、無常の世のならいで、叶わぬうちに不幸にして死んでしまった。しかし、いまわの際まで心残りだったその一念によって、貴殿がもしやこの墓場を通るのではと、ずっと待っていた。我の言うことを信じるとおっしゃるなら、大いに富貴になることをお教えしよう。お聞きになるか」
 気味が悪いながらも、富貴になるというのに心が動いた。
「よし、聞こう」
「今夜、頼母子講の席で、『つい先ほど、道で古い髑髏がものを言うのを聞いた』と話されるがよい。一座の者はどっと笑って、信じる人は誰もいないであろう。そこで、『いや本当だ。そこへ行って、ものを言うのを聞かせよう』と言えば、なお皆は偽りだと決めつけるはず。互いに我を張って言い合ううちに、おそらく金品を賭けて決着をつけることになるだろう。そのときは必ず、安い賭けにはせず、全財産を賭けることにしなされ。さらに確かな証文を取り交わして後、ここに来られるように。我がこのようにものを言ってみせれば、貴殿は一座の者の財産をすべて手に入れることができるわけだ。我の年来の妄執も、それで晴れるであろう。もしや貴殿は、『髑髏がものを言うなど、あるべきことではない。狐狸がたぶらかしているのではないか』と、お疑いかもしれぬ。しかし、その昔には、慈恵大師の白骨の首が女人に法花経をお教えになったことがある。小野小町の髑髏が『秋風が吹くにつけてもあなめあなめ』と歌の上の句を連ねたことも、世に言い伝えている。さあ、『髑髏がものを言った』と強硬に言い募って、大もうけをなさるがよい」
 このように髑髏が懇切丁寧に教えたので、男はたいそう喜び、後のことを約束して別れた。

 男が頼母子講の集まりで話すと、思ったとおり一座の者は笑って相手にしようとしなかった。男は息巻いて声を荒げ、
「おまえらは無学文盲だから、ものの不思議を知らぬのだ。わしはまさしく髑髏と言葉を交わしたというのに、ただ強情にけなすばかりの間抜けどもめ」
と悪口した。それで皆も大いに怒った。
「どうしても本当だというのだな。それでは賭けようじゃあないか。その上で、髑髏の喋るのを聞きに行こう」
 男は『しめしめ、計略どおりだ』と心中ほくそ笑んで、家屋敷から諸道具・田畑に至るまですべて互いに賭けあい、証拠の書面を取り交わしてから、皆を率いて墓場まで赴いた。
 男は先ほどの髑髏に近づいて、
「今、戻ってきたぞ。何か言ってくれ」
と声をかけたが、案に相違してまったく反応がない。一座の者はどっと嘲り笑って、しばしやまなかった。
 男は赤面して、髑髏を揺り動かし、後ろに回り前に回り、さまざまに説得して喋らそうとしたが、なんの効果もなく、いよいよ大笑いされるばかりだった。
 もちろんその後、賭けどおり財産をよこせという騒ぎになった。男はあれこれと詫び言を言ったけれども、先ほど悪口しただけでなく、そもそも日頃から憎まれていたので、人々はまったく聞き入れなかった。妻子にぼろの着物一つずつを許しただけで家を追い出し、田地・山畑にいたるまでことごとく分け取った。

 男は怒りのやりどころがないまま、また例の墓地に行って、髑髏に向かって言った。
「わしはおまえと約束したではないか。なぜ大勢を連れて来たとき、ひとこと言わなかったのだ。いや、むかし聞いたことがある。人は地獄に落ちて苦しむときでも、閻魔大王にしばしの暇を乞うと、大王は罪の軽重によって一日片時の暇を与え、娑婆にお帰しになるとか。おまえは片時の暇をもらって、ここでわしと言葉を交わしたのだが、また地獄の責めをうけるときが来て冥土へ戻った。その後、わしが人々を連れて来たのに違いない。それならば、またここに帰って来ることがあるはずだ。その時期を教えてくれよ。あの者たちの疑いを晴らし、奪われた家財を取り戻し、その上に相手の財産を思う存分わがものにした曉には、おまえの供養も懇ろに執り行ってやるから」
 しだいに涙声になりながら、かき口説いているとき、髑髏がまた声を発した。
「我は昨日、名を隠して名乗らず、ただ恩を受けた者だとだけ言ったが、変には思わなかったのか。おまえは今日まで悪事ばかりを重ねてきた。芥子粒ほどの慈悲もなしたことがなかったではないか。我はその昔、丸橋の里で豊かに暮らしていた者だ。おまえの父親とおまえとが、非道無比な悪行を策して財産すべてを掠め取ったため、身の置き所なく里を追われた内山新三郎こそ、我である。その恨みが骨髄に徹して、我は飲食を断ち、この墓所で縊れて死んだのだ。今、時いたって思いのままに復讐し、妄念も晴れた。嬉しいかぎりだわい」
と嘲笑ったのである。
 男はこれを聞いても、旧悪を悔いることなく立腹して、大きな石を手に取ると、それでもって髑髏を打ち砕いた。しかし一滴の血も流れず、髑髏が痛がるわけもなく、それっきりだった。

 このように死後に仇を報いるとは、まったく恨みは恐ろしいものである。
 中国では昔、眉間尺(みけんじゃく)という者の首が、七日七晩 釜で煮られても爛れ崩れず、口から剣の先を吹きだして報復した。
 また、わが国では昔、相模の三浦荒次郎義意が北条氏に討たれたとき、その首が三年間死ななかった。小田原久野の総世寺の禅師が首に向かって、「うつつとも夢ともしらぬ一ねぶり うき世のひまを明けぼのの空」と詠んで手向けると、やっと肉が朽ちて白骨となり、成仏したという。
 いささかのことでも悪行は厭い、善事を行うようにすべきである。
あやしい古典文学 No.413