『新御伽婢子』巻二「女の生首」より

生首の女

 ある若い僧が、京の都で一人の娘と情を通じ、ことのほか深い仲になっていた。しかし、師匠の意向で、若い僧は学問のため、関東に下ることになった。
 僧は愛しい女に名残があって、しばらくは鬱々として日を送っていたが、そうしてばかりもおられず、今は嘆いても仕方がないと、女に別れを告げて旅立った。女は悲しさに悶え泣きながら、袖にすがって送って行った。

 まだ夜のうちに都を出発したが、粟田口まで行くと、空は白々と明けかかった。
 僧は女に言い聞かせた。
「いつまでも名残は尽きないけれど、こう明るくなってきては、どんなにか人目に見苦しく見えることだろう。たとえ旅の空は遠く雲に隔てられても、やがていつかは立ち帰ってめぐり逢うときが来る。さあ、もうここで別れよう。おまえは都に戻りなさい」
 しかし、女は別離の悲しさに分別をなくしていて、
「今お別れしたら、もう片時も生きていられない私の命です。だからといって、付き添って東国に下ることもできません。ならばいっそ私の首を切って、形見に持ってお下りください」
と、ふところから小脇差を取り出した。
 僧は驚き、途方にくれた。『この女は、どうしても生きて帰らぬ覚悟で、刃物まで用意してきたのだ。帰れと言ってもきかず、かといって連れていくことは出来ない。はや夜は明けてきた。いたずらに時を過ごしてはおれない。僧侶の身でこんな愁嘆場を人に見られては……』
 どうしよう、どうしようと思い迷ったあげく、情けなさに胸を塞ぎながら、ついに雪のごとく白い女の肌に氷の刃を押しあてた。首を切り落とすと、死骸を埋葬し、首は油紙に包んで持って、涙で袖をぬらしつつ、東への旅に赴いた。

 東国に着いた僧は、飯沼の弘経寺という道場の一室に入寮した。
 この僧が外出先から帰ると、必ず女の声が高らかに笑うのが聞こえるので、隣室の者が不審に思い、何度も物陰から覗いたけれども、部屋には僧一人だけがいて、ほかに人影は見えなかった。ごく狭い部屋で、人一人を隠す隙間などまるでないのだが……。
 そうこうしながら、やがて三年が過ぎた頃、僧の母が病に伏していると飛脚の知らせがあって、僧は取るものも取り敢えず都に向かった。
 それから三十日ばかり後のことだった。
 寮の内で、時ならず女の泣き叫ぶ声がして、人々は肝をつぶした。寺じゅう大騒ぎした末、かの僧の部屋の戸に錠が下りているのを破って入った。
 中には誰もいなかった。小さい渋紙の包みがあって、女の声はその内から聞こえていた。
 恐る恐る包みを開くと、飯びつのような曲物の器に、若く艶やかな女の首が入っていた。紅おしろい・眉ずみを施し、生きた女以上の粧いであったが、眼は愁いに沈み、涙に浮き腫れていた。そして、人々を見て恥ずかしげにしおれると、朝の日をうけた雪のようにじわじわと色が変わって、たちまち腐り枯れた死人の首となってしまった。

 どんな委細があるのか分からないながらも、僧たちが集まって首の女の霊を懇ろに弔った。
 その後、京都から飛脚が下って、
「かの僧は急病に罹って、何月何日何刻にあい果てました。よって寮を明け渡します」
と知らせてきた。
 思えばそれは、女の首が泣いたのと同じ日、同じ時刻であった。やがて僧と女の京都での事情が知られて、人々は舌を巻いて驚いたという。
 仏の教えに、『ただ一度の妄念が五百生もの間の報いをよび、量り知れぬ業を作る』とある。このように恋慕執着の報いを受けるとは、なんとも浅ましいことだ。

 昔、中国に呉子胥(ごししょ)という者がいた。呉国の王が西施という后に迷って政治を顧みないのを諫めたところ、呉王は怒って子胥の首を討った。斬首の時に子胥が、「わが首を呉の東門にかけよ」と言ったので、その通りにした。
 後に呉王は、隣国である越の捕虜となって、呉の東門を通った。子胥の首は、呉王の惨めな姿を見て笑ったという。
 また、わが国では昔、平将門が謀叛を起こして藤原秀郷に討たれたが、将門の首は三ヶ月たっても変色せず、眼を塞がなかった。
 見物の者が「将門は米かみよりぞ切られける」と歌を詠むと、首はからからと笑って、そのまま眼を閉じ、肉が枯れ朽ちて死んだという。
 勇猛な武人であれば、こういうこともあるだろう。しかし、優しい姿の女にこんな恐ろしいことがあった例は、まったく他にないのではないか。
あやしい古典文学 No.425