平尾魯遷『谷の響』二之巻「蟹羽を生ず」より

沢蟹が飛ぶ

 官医の佐々木某氏が少年の時分、湯口村の天神宮に参詣した帰り、小さな沢蟹を数十匹買った。
 その蟹を水鉢に入れて飼っていたが、六七日たつうちに全部逃げて、姿が見えなくなった。
 ところが、その年の七月ごろ、台所の床の下から一匹二匹、あるいは六匹七匹と、日々出てくるのを見れば、みな蝉のような薄い羽を生じていて、そのままどこへともなく飛び去った。
 羽のほかは、ハサミも脚も蟹のままであったという。

 これは天保の初めのころのことだと、佐々木氏は話していた。
 棲むところによっては、蟹もこんな変化をするもののようである。
あやしい古典文学 No.428